【大坂・京都】
秀吉に付いて何となくネットサーフィンをしていたら、関西出身の昭和の著名な作家が秀吉のことを「史上、類を絶した大悪党」と呼んでいた事を知りました。最近では、一般の人のアンケートでも戦国時代を代表する信長・秀吉・家康の3人の中で、ダン突とは言わないまでも秀吉が悪人の筆頭で、家康がダン突で“いい人”のようです。
(豊臣秀吉)
ひと昔前なら関西人は秀吉びいきで、家康嫌いというのが一般的だったようですが、大河ドラマの影響もあり、それぞれの生きざまがよく知られ“秀吉大悪人”は全国にも広がり、くだんの作家の影響か関西人にも秀吉嫌いが増えているらしい・・・!?
(織田信長)
例えば、秀吉にとって信長はどん百姓の身から取り立ててくれた大恩人ですが、本能寺の変が終り、数年の間に3男信孝は切腹に追い込み、その母と娘、以前は秀吉にとって「お方様」であり「姫」だった女性を自らの手で処刑し、2男信雄は追放。トップに立つために利用した三法師(主君の孫・長男信忠の子)には美濃一国を与えだけ、まさに忘恩の輩であり、さらには関白の秀次を自害に追い込み、その妻妾と子供39人を三条河原で斬首している大悪党です。
(西本願寺)
浄土真宗についても前回の本願寺にも書きましたが、本願寺を徹底して懐柔し膝下に置くため、門徒衆との分断を図り、本願寺の寺域を幾度も移動させ、宗主の決定権を握り骨肉の争い関わり、本願寺を京都に移す際には、組織力と軍事力を弱体化するため寺内町をなくし、さらに宗教的人事権も奪っています。
(フランシスコ・ザビエル)
《伴天連追放令》
最初は、信長の”切支丹教保護”政策をそのまま継承します。しかし、天正14年(1586)10月にやっと難敵徳川家康を”上洛臣従”させると、天正15年(1587)6月19日イエズス会日本副管区長コエリョへ「伴天連追放令」が出され、併せて「西征戦(島津討伐戦)」に参戦していたキリシタン大名の”高山右近”が領地没収の上、追放されることになります。
(高山右近銅像・金沢)
「伴天連追放令」の大意:日本は神国なので、キリスト教国から邪法を授けることは、決してあってはならない。伴天連は大名や民を近づけて、門徒にし、神社仏閣を破壊させていると聞く。これは前代未聞のことで、国・郡・在所・知行等が大名に渡されているのは当然であるが、天下の法度を守り、何事も天下の意向に沿うべきなのに、大名が下々の分際のくせに勝手なことをしているのは、悪事である。
(伴天連追放令)
○パードレ(神父)達が、何故にかくの如く熱心に諸人に勧め、また強制してキリシタンとなせるか
○神仏の社寺を破壊し坊主を迫害し、これと融和せざるか牛馬は人間に仕へ有益なる動物であるに、何故にこれを食ふ如き道理に背いたことをなすか
○ポルトガル人が多数の日本人を買ひ、これを奴隷としてその国に連行くは何故であるか
そして、翌日正式な『伴天連追放令』として、発給されました。
(南蛮寺図)
“宣教師フロイスの「日本史」にある文章の意訳”
「キリスト教徒は一面で一向宗に似ているが、それよりも危険で有り有害である。一向宗は
百姓や下賤な者の間に止まっているが、上層社会には受け入れられてはいない、加賀では坊主を国王としたことはあるが、現在の本願寺は大阪城の眼前(天満)にあり、築城したり、防壁を造ることは許されていない。ところがバテレンらは、高度な知識を根拠にしていて、日本の上層部の貴族や名士を獲得しようとしている。彼らの団結力は、一向宗より強固である。彼らは狡猾な手段で日本の諸国を占領することを狙っていることに微塵も疑問がない。
何故なら、かの全信徒はその宗門に徹底しているからである。」とあります。
秀吉は九州で即座に伴天連追放令を出して、切支丹の侵略の意図を把握し完全に破壊しなければと決断したものだと思われます。これは当時の天下人としては大英断で大悪党とは言えないかもネ・・・!?
(徳川家康)
しかし徳川家康は、当初キリスト教を黙認していたが、徳川氏中心の体制が揺るぎないものにするため慶長19年(1612)にキリスト教禁止令が発令されます。
参考文献:「本願寺と天下人の50年戦争」武田鏡村著 2011.5月(株)学研パブリック発行 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』