【大坂・京都】
秀吉を調べていて、日本には今も昔も国のトップ(天下人)に立つ人の中には“嘘とまやかし”“本音と建前”が多く、民に対して愛がなく、政をトップと取り巻きが思い通りに進めようとするグループでき、やがて大悪党化していくのに気付かされます。まさに秀吉が関白になった天正13年(1585)の翌年、聚楽第の造営を始め、前後して京都に日本一の大仏の建立を思いつき、国内に大仏殿造営のための資財の運上を命じます。しかし、建立は九州平定のため一時中断しますが、天正16年(1588)に今の三十三間堂の北側、今の国立博物館にかけて広大な敷地に日本一の天台宗方広寺大仏殿と大仏の造営が計画されます。
(1年で6万人を動員し造営された方広寺は、秀吉はもはや主君信長の弔うためのものではなく、関白として朝廷の権威を示そうとしたものではなく、自己の権威を誇示するためのもので、方広寺の方「ほう」は、豊臣の豊「ほう」だとも言われています。)
日本一巨大な大仏や大仏殿にこだわったのは、秀吉開祖で天下に自分の絶大な権威を見せつけようとしたもので、その頃、奈良の東大寺大仏殿は松永久秀によって焼失し、大仏も露天に晒されていて、関白職の秀吉が再考する義務がありました。また、少しさかのぼりますが、天皇から勅額を授かっていた主君織田信長の菩提寺天正寺が船岡山の丘陵地に建立されるはずが、古代の墳墓の地等々と有耶無耶(うやむや)にし白紙に戻しています。秀吉は、何にも優先し、自分の威光を天下に示すため、方広寺という大寺院と張りボテの大仏を建立したものと思われます。
(豊臣秀吉・ウィキペディア(Wikipedia)
(京都大仏:京都の東山にある方広寺は、天正14年(1586)、秀吉が天正地震を機に奈良の東大寺に倣(なら)って大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を始まります。大仏殿は、文禄4年(1595)に完成します。大仏殿の高さ約49m、南北約88m、東西約54mという壮大なもので、境内の敷地の広さは、現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館を含み、三十三間堂の南側にまで及んでいました。大仏殿には、高さ約19mの木製金漆塗坐像大仏 が安置されていました。しかし、慶長元年(1596)に起きた慶長伏見地震により、開眼前に大仏は倒壊し、正式な開眼供養もないまま破損します。このとき秀吉は大仏に対し「おのれの身さえ守れないのか」と激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝えられています。慶長3年(1598)、秀吉は法要を待たずに死去し、その年、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われました。方広寺は今もあり、他、興味深い後日談も数多く有ります。)
(聚楽第・ウィキペディア(Wikipedia)
実際に方広寺大仏殿の立柱式が行われたのは、小田原の北条攻めなどで遅れに遅れ天正19年(1591)5月でした。秀吉は遅れを取り戻すため、大仏の材質を当初の銅製から木材で組み立てた漆膠製、つまり木製の物を”うるし”と”とかわ“で固めたもので、天平時代の天下国家の鎮護を祈る聖武天皇の奈良の大仏とは思想も造りも大違いで、豊臣家の私事と単なる政治上の思いつきで、権威を示す事もさることながら聚楽第のある京都の防衛上のものであったことが窺えます。
(方広寺あと・ウィキペディア(Wikipedia)
また、大仏殿を造るための釘(くぎ)や鎹(かすがい)を作るため、大仏を鋳造する名目で刀・脇差・槍・鉄砲、その他武具の提出、そして所持の禁止を命じています。これは、太閤検地と並び称せられる有名な「刀狩令」で、その趣旨は「大仏造営のため武具を指し出す事は、仏と深い因縁を結ぶことになり、今生も来世までも救われる」と説いていますが、大仏は銅製から木製漆膠になったので、刀狩令の趣旨とは矛盾していますが、それも有耶無耶にされています。
(今の方広寺・ウィキペディア(Wikipedia)
もっとも刀狩令の主眼は、大仏の造営にことよせて武具を放棄させ、耕作地に百姓として
定住させるためのものであり、この制度が政策化され、天正19年(1591)8月、兵・農・商・工の身分の確定、百姓の土地への固定化、武士の主従関係の固定を命じています。
(准如・ウィキペディア(Wikipedia)
方広寺大仏殿が完成した文禄4年(1595)9月25日、秀吉は父母の供養という名目で真言宗、天台宗、律宗、禅宗、法華宗(日蓮宗)、浄土宗、遊行宗(時宗)、一向宗(浄土真宗)の各派に、それぞれ100人の僧侶を出して法要をするよう命じています。いわゆる「千僧供養」言われているものです。その時、一向宗の本願寺は准如自ら100人の僧侶を率い法会に出仕しています。
(秀吉は、作家イザヤペンダサン(山本七平)によると「宗教は八つも九つもあるから、どれを選んでも良い」と言ったと云われています。その心は、宗教は、神仏が人を選ぶのではなく、人が神仏を選ぶもので、言い換えれば、それざれ欲望のままに御利益が有ると思えば、何を選んでもかまわないと言うことなのでしょうネ・・・?)
参考文献:「本願寺と天下人の50年戦争」武田鏡村著 2011.5月(株)学研パブリック発行 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』