【加賀藩金澤】
加賀藩には藩政期、極悪人にされ非業の死を遂げ、後に名誉が回復された代表的な人物が2人います。一人は以前にも書きましたが幕末に、藩の権力者と癒着して密貿易をおこない莫大な財産を築き、河北潟干拓工事では毒物を投入し極悪人と言われた銭屋五兵衛で、もう一人は今回の主人公で元禄16年(1703)生まれの大槻朝元です。後に大槻内蔵允伝蔵の悪名は加賀藩に止まらず、歌舞伎や浄瑠璃、実録本(面白おかしく書かれた世間うけ狙った噂話)、そして映画などを通して全国的にも知られるようになり、藩政期、加賀藩の有名な極悪人銭屋五兵衛が明治に入り誤解も解け、評価は一変し、大槻内蔵允伝蔵は近年になり悪名が払拭されます。今回は、その内蔵允伝蔵について少し調べることにいたします。
拙ブログ
3つもあった銭屋五兵衛の墓
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≪大槻伝蔵と加賀騒動≫
あらすじ
朝元は幼少時に金沢波着寺の小僧ですが、享保元年(1716)7月、まだ藩主になる前の前田吉徳公に御居間坊主として仕えるようになります。享保8年(1723)、加賀藩5代藩主前田綱紀公が隠居し吉徳公が6代藩主に就くと、朝元は還俗して通常の士分となり、名も朝元(とももと)のちに伝蔵、また内蔵允(くらのすけ)と称します。
そして、御部屋附御居間方として出仕すると、持ち前の美貌と明晰な頭脳を生かして藩主吉徳公の寵愛を得、仕事の実績も上げ出世します。17年間で実に18回もの加増を受け、伝蔵は、地位と立場を最大限に利用し藩政を牛耳ってしまいます。
この頃、加賀藩は100万石の大藩として出費が著しく、一方で収入は年々落ち込み財政は悪化。吉徳公は財政再建を譜代の八家や門閥層では上手くいかないとみるや、それらを排除し、御部屋付の側近たちを重用し、その中でも大槻伝蔵が特に取り立てられ財政改革を行ないます。
伝蔵は財政改革のため、倹約令と新税の制定、米相場投機の改革などを行い、加賀藩の財政はある程度持ち直し、この功績によって伝蔵はいよいよ吉徳公の寵遇を受けるようになり、吉徳から加増を受け最後にはその石高は3,800石にまで加増され、家格も家老職とほぼ同格となっています。しかし伝蔵は、藩内の保守派や門閥層にとって成り上り者、また、厳しい倹約令によって門閥層の既得権が奪われ、保守派にとっては我慢がならず、大槻伝蔵の出世を妬まれ、憎まれ、延享2年(1745)に吉徳公は病死すると、その生前から前田土佐守直躬をはじめとする藩内の保守派たちは、7代藩主前田宗辰公に伝蔵に対する弾劾状を数度に渡り差し出し、吉徳公の死から1年後延享3年(1745)「吉徳に対する看病が不十分だった」と訳の分からない罪で 蟄居を命ぜられ、さらにその2年後には越中国五箇山に配流となります。
そして、7代宗辰公が早世し家督を継いだ8代重熙公へ、その頃、江戸の加賀藩邸で藩主が飲む茶に毒が盛られていたという事件が発生し、毒味をした藩士の症状が吉徳公そして宗辰公が死去したときの症状がよく似ていて、おかしいと思い関係者を捜査したところ、吉徳公の側室の一人真如院の娘楊姫付きの浅尾という侍女が、真如院の命で藩主用の茶釜に毒を入れたと自白?します。
その頃、真如院は江戸から金沢に向かう道中で、浅尾が自白したとの報を受けた藩当局は、真如院が金沢に着くと身柄を拘束し、金谷御殿に幽閉されます。犯行の動機は真如院の子で吉徳公の4男の利和を藩主の座に就けるためとされたが、真如院には身に覚えのない話。しかし、証拠として提出した大槻伝蔵との書簡から今度は伝蔵との密通疑惑が浮上してきます。真如院は犯行を否定しますが、伝蔵が配流所の中で自殺しているのが発見され、真如院の刑も永年蟄居と確定。悲観した真如院は藩士長瀬五郎右衛門に絞殺を依頼、この世を去ります。
(注:この「加賀騒動」のあらすじは、歴史学的な考察に基づいたものではありませんが、現在、一般的に語られているあらすじです。)
事件の5年後宝暦9年(1759)3月29日、幽閉されたままの真如院の子前田利和が死没。その10数日後、泉寺町の舜昌寺より出火し、火は風に煽られて犀川を越え、金沢城など、町域の9割方、10,500余戸が焼失、 金沢史上最悪の大惨事と「宝暦の大火」になり、市民等は肌感覚で前田利和の「たたり」だと感じていたようで、当時から市民は前田土佐守直躬(なおみ)が主導した「デッチ上げ事件」であることに気付いていたのではと思われます。
(つづく)
参考文献:「加賀騒動」青山克彌訳 株式会社教育社 1981年12月発行「直木三十五全集(大槻伝蔵の立場)株式会社示人社 平成3年7月発行「金沢古蹟志」金澤文化協会 昭和8年8月十五日発行「フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」前田土佐守家資料館HP等