【加賀藩金澤】
“金澤古蹟志”は、幕末から明治にかけて活躍した郷土史家森田柿園((1823〜1908)が、編纂した金沢の場所の由来や逸話を、昔から残っていた膨大な文献に書かれた事柄を柿園が永年に亘り調べ尽くしまとめられているものです。
(金沢古蹟志と森田柿園)
≪金澤古蹟志より≫(一部割愛・詳しくは金沢古積志第3編・巻6城外堂形辺P34参照)
越路鏡(越路加賀見)に云う。宰相中将吉徳公の寵臣大槻内蔵允の父は、石川郡久安村の土民長兵衛と云い、その身は鉄砲足軽となり、大槻長兵衛と称す。男子を御居間坊主に出し、大槻朝元と名乗り勤めた処、吉徳公の御意に応じ、束髪を命ぜられ大槻伝蔵と改称し士列となり、元来、才智発明ゆえ、追々立身し、内蔵允朝元と称し、人持組3800石を賜はり。心中に反逆の企てありといへども、吉徳公男色に御心を迷はせ、露悟り給はず。何事も彼が申す旨に任せ、内蔵允は望有るを以て先づ財貨を奪ひ、人事を計り、御貯用の金蔵たる金銀を取り出し、宝蔵も空虚とはなり云々。
(今の金沢城可北門と菱櫓)
青地礼幹の“浚新秘策”に載せたる寛保2年(1742)の書簡に云う。大槻内蔵允は御先代以来、掃除坊主にて大槻朝元と称し、御居間坊主になり、男色の御寵愛より出頭し、束帯の後伝蔵と改称し、御歩組へ入り。それより新番に移り、程なく御小将組に入りついに御使番並になり、物頭並より去々年組頭並、それより人持組に命じられ、日夜御側に相勤め、御寵愛に過重し、去年以来は御國に於ても御政務に預り、御家老の内前田大学は父修理以来縁者となり、玉井市正はおもねへつらい取り入り、これが羽翼(助けてくれる人)となり御数奇の倹約を事とす。
(朝元が初めに勤めた小立野波着寺)
去秋御帰国以後は、一向この事にのみ心力を用いられ云々。また泊番の頃は大奥へこの者一人連れ召され、御床も一所に敷並べ、女中も構えなく、その処へ召される故、賤徳彰聞忍び難く聴云々。また高徳公(初代利家公)以来御軍用之為め貯へ置かれたる獅子土蔵の古金銀をも、ことごとく取出したる事なども記載せり。
諸士系譜には、父長兵衛と云う者綱紀公の時、割場附足軽となり、後小頭に転じ、享保13年(1728)定番歩に立身し、元文元年(1736)小頭となり、新知100石賜はる。朝元は実に長兵衛の兄持弓足軽小頭大槻七左衛門の三男也。長兵衛の養子となり、正徳4年(1714)掃除坊主に抱えられ、同年江戸へ相詰め、吉徳公御部屋付御居間方となり、享保11年(1726)正月歩組に立身し、束髪して大槻伝蔵と称す。
(今の三十間長屋)
享保11年(1726)12月新知130石新番組となり、同14年(1729)9月100石加増組外に立身、同15年(1730)某月100石加増、同17年(1732)正月100石加増、同18年(1733)7月100石加増、合550石、同19年(1734)5月大小将御近習より物頭並となり、元文元年(1736)2月200石加増、12月200石加増、元文12年8月200石加増、都合1,550石組頭並と成り、以後何度かの加増を経て、寛保元年(1741)2月250石加増、都合2300石人持組と成り、本多安房守へ組入り、同2年正月500石加増、同年12年500石加増、同13年3月500石加増、同3年12月500石、都合3,800石となり、延享4年(1747)12月18日遠島に命じられ、当分成瀬内蔵助へ預けられ成瀬内蔵助宅に禁固。
追て越中五ケ山へ配流の旨安房守申渡し居宅跡関所。御小将横目が内蔵允出宅罷越し、男女子供7人・母共一族残らず、3人の縁者へ指預に相なり、従弟以上残ず遠慮。内蔵允屋敷はその日翌日切に取壊し、明屋敷となり、路道具之内御紋付の分は残らず取上る由。寛延元年(1748)4月18日越中国五ケ山之内祖山村へ出立、寛延元年(1748)4月18日大槻内蔵允五ケ山之内に禁固。この日成瀬居宅に横目村田吉左衛門罷越し申渡し、途中御徒横目等指副い、五ケ山へ指遺す。返書之頃金銀・たばと・きせる・硯などの類、百姓取次ぎ獄中へ入る。その金子を以て百姓を偽りこれを与え、小刀を求め、同年9月12日禁固中小刀にて獄中に自害す。その時48歳。これより兄大槻長左衛門禁籠、母並び園田兵太夫母共禁牢、兵太夫並に大槻長大夫は人持寺西市正・篠嶋織部へ預けられ、その外一類縁者はその嚴敷遠慮を命ぜられたとあり。
以上、森田柿園は「金澤古積志」に書いています。(西暦加筆)
(金沢古蹟志)
年譜には延享2年(1742)6月12日吉徳公薨去。同年7月世子宗辰君家督を継ぎ、翌3年(1743)12月卒去。御舎弟重煕君嗣子と成り、4年正月家督を継ぐ。
(森田柿園の金澤古蹟志は、「越路加賀見(こしじかがみ)」を下敷きに寛保2年(1742)に書かれた青地礼幹の“浚新秘策”を参考に書かれたものと推察出来ます。実録本越路加賀見は古く宝暦6年(1756)に書かれたもの、それに柿園が調べて加筆ものと思われますが、現在、語られている話とは随分違うようです。)
(つづく)
参考文献:「金沢古蹟志」金澤文化協会 昭和8年8月十五日発行「フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」