【山科・越前・越中・越後】
本願寺の門徒は各地の大名とゆかりの深い武士が主力の教団でした。そのため政治情勢による対立を生じやすく、8世蓮如は、信仰以外は関知しないという立場を執っていて、時の将軍足利義尚に属する本願寺の立場に反する事には表立って反対する事なく、政治には原則不介入の立場を取っていました。
しかし、9世実如(蓮如に次男)は、蓮如の意志に反し管領細川政元の術策に嵌り?教団ぐるみで公然と一つの勢力に味方してしまいます。河内の争乱、永正の一揆、大小一揆に繋がっていきます。実如は、“長享の一揆”で9代将軍足利義尚が本願寺に討伐令を下そうとして時、管領細川政元が強く反対して討伐令を撤回させたという経緯から実如は大きな恩義を感じていて、明応4年(1495)、細川政元の命で、加賀一向一揆の指導者で反政元派の河合宣久を排除し追放します。
拙ブログ
本多町と一向一揆伝説③河合宣久
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永正3年(1506)、“河内の争乱”では、実如が細川政元の要請を受けて河内国畠山義英討伐への協力に応じると、摂津国・河内国の門徒に一揆を起こして畠山義英を攻めるように命じたが、畠山氏との関係が深かった摂津・河内の門徒らは猛反発し、実如の異母弟で畠山氏の血を引く実賢(後に近江称徳寺住持)を石山御坊にて擁立して法主の交替を求めた、しかし、実如はこれを加賀の門徒を千人ほど河内に派遣し、力づくで抑え込みます。
更に、実如は細川政元の要請で反本願寺、反細川氏を標榜する越前国の朝倉氏、能登国・越中国の畠山氏に対して北陸の門徒に一揆を起こすように命じ、越前国・加賀国・能登国・越中国の門徒は大規模な一向一揆を起こし、8月には越前で朝倉貞景と九頭竜川の戦いで大敗した一揆軍は、撤兵して国境の守りを固めます。翌9月には越中国で畠山氏の援軍(一揆軍鎮圧)に来た越後国の守護代長尾能景と越中の般若野(はんにゃの・現砺波市般若)の戦いで一揆軍が凱旋します。要請した越中守護代神保慶宗に裏切られ一揆軍に囲まれ長尾能景を討ち取ったと云います。
”永正の一揆“は、永正3年(1506)7月から9月にかけ一揆軍と隣国守護大名軍の衝突
が、越前と越中で騒乱が続く中、細川政元の養子澄之が政元を暗殺し、もう1人の養子澄元と争うと、その争いに巻き込まれた実如は澄元により一時山科本願寺を追放され、近江堅田本福寺住持明顕・明宗の協力を得て堅田御坊へ逃れ、永正6年(1509)に山科本願寺に復帰します。
蓮如から実悟へ
明応8年(1499)3月25日、8世蓮如入寂。死に際し蓮如は石山御坊より山科本願寺に帰参し、山科本願寺において85歳の生涯の全うします。妻の死別4回。生涯に5度の婚姻で子は男子13人・女子14人の計27子を儲けます。実如は長禄2年8月10日(1458)9月26日。8世蓮如の第8子(5男)として誕生れ、母は伊勢貞房の娘蓮祐尼(蓮如の2番目の夫人)。後に左大臣日野勝光の猶子となって青蓮院で得度し大納言と称する。 文正2年(1467)、延暦寺から「仏敵」とされ京都を追われた父蓮如がやむなく延暦寺に屈した時に蓮如の隠居と長男順如の廃嫡、そして当時光養丸と呼ばれていた実如への家督継承が強要されるが、本願寺の勢力回復とともに有耶無耶となり、元のように順如が法嗣とされた。文明5年(1473)17歳で青蓮院にて得度、大納言と仮称した。文明15年(1483)、長兄である順如の死没により改めて法嗣となる。延徳8年(1489年)、父の退隠にともない、本願寺を継承し9世となる。
この事態に苦慮した実如は、同母弟の蓮淳、息子で次男の円如と共に北陸門徒に対し一揆の禁止をはじめとする3か条の戒めを発布したり、本願寺の一族を一門衆(嫡男)と一家衆(次男以下)に分ける一門一家制を設けたり、宗門信条の基本とするなどの策を講じた。大永元年(1521)、青蓮院脇門跡に任ぜられるが、同年に円如が急死、円如の子証如が後継者となります。
実如は、大永5年2月2日(1525)68歳にて示寂。証如が本願寺第10世を継いだが、幼い証如に代わって蓮淳が後見人(証如の外祖父でもあった)として本願寺を取り仕切ります。
(つづく)
参考文献:辰巳明著「消された城砦と金沢の原点を探る」清水隆久著「田辺次郎吉」冨田景周著「越登加三州志」「実如」フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」神田千里「一向一揆と石山合戦」吉川弘文館平成19年発行ほか