【加賀・能登・越中】
“長享の一揆”の長享2年(1488)から“享禄の錯乱” (大小一揆)の享禄4年(1531)の43年間は、加賀を支配したのは若松本泉寺中心に蓮如上人の連枝の三ヶ寺とも四ヶ寺が統治した時代といわれていますが、実際は加賀国が北と南に2分され、河北郡と石川郡の北加賀は“若松の本泉寺”を拠点に統括、能美郡と江沼郡の南加賀は“波佐谷の松岡寺”を拠点に統括されていました。
(ちなみに三ヶ寺の山田光教寺は、波佐谷松岡寺を補佐しますが、やがて土山御坊(南砺市土山、後の氷見勝興寺)の開拓に力を入れています。加賀の蓮如蓮枝、若松本泉寺蓮悟(7男)蓮乗(2男)の養子・波佐谷松岡寺蓮綱(3男)・山田の光教寺蓮誓(4男)・鶴来清沢願得寺実悟(10男)蓮悟の養子)
(白山)
“永正の一揆”以来、加賀に亡命していた越前の超勝寺と本覚寺方が地盤とした白山麓の”山内“の一角、永正5年(1508)鶴来に清沢願得寺を建立し、手取川流域を直接把握しょうとして蓮如上人の10男実悟(蓮悟の養子)を配したので、三ヶ寺方と超勝寺と本覚寺方の対立は益々増大します。そのような時、本願寺の9世実如が没し、幼少の証如が本願寺10世を継ぎ、後見者に蓮如上人の6男蓮淳が就き、本願寺の実権を握ることになります。蓮淳の娘は超勝寺実顕に嫁していたので、超勝寺は権威を持つことになり、本覚寺と共に、加賀ではいよいよ三ヶ寺方の統制に従わなくなっていきます。
(証如上人・ Wikimediaより)
(白山と村々)
享禄4年(1531)閏5月、大小一揆(享禄の錯乱)の骨肉の内乱が開始されました。この内乱は、蓮如上人の6男蓮淳と7男蓮悟の”同母兄弟の喧嘩”を内包しつつ、加賀の国を従来通り「百姓の持ちたるような国」か「本願寺の持ちたる国」になるかの分岐点となります。
(本願寺の坊官下間頼秀・頼盛兄弟は、加賀を本願寺が直接支配するには大一揆側を助ける方がいいと考え、第10世法主証如及び後見人の蓮淳に接近、享禄4年(1528)の加賀の大小一揆で大一揆に属して超勝寺実顕(蓮淳の婿)を助け、小一揆を壊滅させます。)
享禄4年(1531)閏5月、”山内”の要塞に立てこもる超勝寺と本覚寺方(大一揆)に、白山越えで本願寺が派遣した三河・飛騨の門徒衆の援軍が来ると超勝寺と本覚寺方が反撃に出ます。7月には超勝寺と本覚寺方(大一揆)は波佐谷松岡寺を奇襲攻撃し、松岡寺一門を捕えて“山内”に連行され、自害に追い込み、松岡寺を滅亡させ気勢を上げる“大一揆”は、7月23日に鶴来の清沢願得寺を焼き、7月29日には若松本泉寺が炎上しました。
(白山比咩神社)
山内(山之内庄): 能美、石川両郡にまたがり白山比咩神社により支配された地域。白山比咩神社の南方4㎞の福岡を中心とし、石川福井県境の谷峠に至る国道157号線沿いの牛首川流域の地と、東の尾添川、西の大日川沿いの谷合部落一帯の総称で、鎌倉時代以来、四つの地域にわたり、組的結合の牛首組・尾添組・二曲組・吉野組が形成していました。
(田井の村)
大小一揆(享禄の錯乱)以後、大一揆方“石那坂堡”の田辺次郎吉は、何くわぬ顔をして田井(石那坂堡)に止まっています。田辺次郎吉家の家伝によると、「長享の一揆」の前に鶴来から奥の“山内”の地盤にしていた大一揆方(超勝寺・本覚寺)から若松本泉寺近辺に送り込まれた“工作員(スパイ?)”で、松田次郎左衛門の輩下になり、極秘に松田氏に“別心”の工作を進めてきたが、松田氏は“別心“を疑われ謀殺されても小一揆方(三ヶ寺方)にとどまり、さらに“享禄の錯乱”以後も大一揆方(超勝寺・本覚寺)の工作員で在ったためか生き残ったと考えられています。
拙ブログ
田井菅原神社と“田辺次郎吉家”
(田井菅原神社・石那坂)
大一揆・小一揆は、加賀の三ヶ寺方と超勝寺と本覚寺方の何れを”大一揆“というかは、現在は混乱していますが、全国的には超勝寺と本覚寺方が大一揆と呼んでいます。金沢では昔から著名な郷土史家(富田景周・森田柿園・日置謙・辰巳明など)や古くは「朝倉始末記」の著者などは三ヶ寺方を”大一揆“と呼んでいます。
(私も郷土愛から越前からの侵略者に対して「大」とは云いがたく、また、今まで郷土史家に習い加賀の三ヶ寺方を大一揆と呼んでいましたが、地元の者として癪ではありますが、今回は視野を広げ客観的な視座に立ち超勝寺と本覚寺方を“大一揆“と呼ぶことにしました。)
(つづく)
参考文献:辰巳明著「消された城砦と金沢の原点を探る」清水隆久著「田辺次郎吉」神田千里「一向一揆と石山合戦」吉川弘文館平成19年発行ほか