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加賀の一向一揆⑦享禄の錯乱から尾山御坊建立まで

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【加賀4郡他】

享禄の錯乱では、三ヶ寺側(小一揆)には越前の朝倉、能登の畠山、加賀の富樫も加わっていたが、若松本泉寺炎上以後、三ヶ寺側(小一揆)土着の武士洲崎、河合能登に逃れ、畠山、遊佐、神保、温井の援助のもと河北郡に進撃。享禄4年(153111月まで戦いは続き一進一退。その間、加賀の土着の武士や門徒も多く戦死し、朝倉軍越前に引き上げ富樫一族も越前に亡命します。

 

(南加賀の一部・江沼の超勝寺・能美の波佐谷松岡寺)

 

天文元年(1532)から3年、洲崎、河合らは朝倉の援助のもと加賀の支配権を奪取するため再三加賀侵入を試みますが失敗を繰り返します。超勝寺、本覚寺は加賀の大坊主長衆(おさしゅう)に取って代わり越前で失敗した門徒領国を加賀で実現を図ります。

 

一方、本願寺の10証如は、本願寺と細川晴元が対立する事態を招き、このままでは全国の戦国大名を敵の回す恐れから、坊官下間頼秀・頼盛兄弟を畿内へ戻し、河内・摂津で一揆を率いて転戦しますが、天文4年(1535)の法主10証如と細川晴元との和睦で主戦派として失脚、下間兄弟は本願寺を退去し、翌5年(1536)、摂津中嶋城で一揆の部将として参戦したが、畠山家臣団の北河内土豪木沢長政に打ち破られて逐電、堺で10証如の刺客に暗殺されます。

 

(足利11代将軍・管領細川晴元・河内守護代木沢長政)

 

(細川晴元:第34代室町幕府管領。山城・摂津・丹波守護。領内で一向宗の活動に悩まされていた近江国の六角定頼とも協力して山科本願寺を攻め、山科本願寺焼亡後、石山本願寺に移転した一向一揆と戦い、天文2年(1533)に一向一揆の反撃に遭い堺から淡路国へ亡命したが、摂津池田城へ復帰して体勢を立て直し、天文4年(1535)に和睦。詳しくは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 

一方、大小一揆(享禄の錯乱)以降、加賀国は騒然とし、若松と波佐谷に取って代わった超本二寺の号令に従わなかった者も多かったと云う北加賀2は、松任中心に本覚寺を、南加賀2江沼郡の林を中心に超勝寺触頭(ふれがしら)に本願寺から派遣されて坊官が駐在し、10証如の命で新しく編成した“郡・組・講を通して下部へ伝達する仕組みでした。

 

(北加賀の1部・河北郡辺り)

(北加賀の1部・石川郡松任城辺り)

 

しかし、この本願寺法主領国化は、門徒の自治を狭め、門徒負担を強化するもので、不満が長くくすぶり続けます。ついに一向一揆の分裂、解体症状が露呈することになります。その頃、天文6年(1538)法主証如が能美郡4組に対し、納付した“志”の金額が余りのも少ないと叱りつけたと云う。

 

そして、その年本泉寺蓮悟以下の小一揆側は、加賀支配権の奪回を企て天文6年(15378月、本覚寺を襲撃し、再び加賀国を動乱の渦に巻き込んだので、89超勝寺石川郡の新たな長衆らにより本願寺に対し、本泉寺方の反乱を注進されたが、本願寺の討手を待つまでもなく、新たな支配権を持つ坊主・国人連合勢力に鎮圧され、大一揆側(本泉寺蓮悟はじめ光教寺顕誓、洲崎・河合など)旧有力土着の武士、門徒は破門に処せられ、さらに追及の手をゆるめず、反乱者の破門が解かれたのは、14年後の天文20年(1551で、蓮悟に至っては天文12718日の死に際しても許されなかったと云う。

 

(現在の尾山御坊辺り)

 

しかし、本願寺在所の長衆(おさしゅう)が超勝寺、本覚寺を通しての本願寺直接支配に背を向け始めている状況を読み取り、また、旧土着の武士の背後に越前の朝倉氏ら周りの大名の策謀も見え隠れしていることにより加賀の一向一揆は、内外から崩壊の危機が迫っていることに気付き、超勝寺・本覚寺に代って法主国加賀の核となる拠点、本願寺の北陸総本山“尾山御坊”を天文14年(1545)に建立します。

 

 

 

(つづく)

 

参考文献:辰巳明著「消された城砦と金沢の原点を探る」清水隆久著「田辺次郎吉」神田千里「一向一揆と石山合戦」吉川弘文館平成19年発行 鏑木悠紀夫著「松任城と一向一揆」北國新聞社昭和6311月発行  図は一向一揆研究会砺波正夫ほか

 


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