【金沢・大阪・山科】
天文元年(1532)8月24日、当時の本願寺の本拠地であった山科本願寺が細川晴元勢や法華宗門徒を中心とする京都住民の勢力に攻撃され、焼き討ちで山科本願寺を追われた証如は、居所を大坂御坊へ移し、大坂(石山)本願寺とし本拠地とします。その後、顕如は天文12年(1543)1月7日、本願寺10世証如の長子として誕生。天文23年(1554)8月12日、父証如が重態となり、急遽得度が行い、翌13日、証如の死により顕如は11世本願寺法主を継職します。
(やがて、顕如が細川晴元の養女(左大臣三条公頼の三女如春尼)と婚約し、本願寺は晴元と和睦し、弘治3年(1557)4月17日、顕如は如春尼と結婚、室町幕府とも親密な関係を築いて中央との関係修復に努め、本願寺の体制強化を進め、山科本願寺の戦いを教訓として、各地の一向一揆に対してもみだりに乱を起こさないように命じています。)
(10世証如上人)
(現在の武佐の広済寺)
天文15年(1546)に尾山御坊(金沢御坊)が建立され、以後、本願寺10世証如が兼帯します。そこを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大。本願寺は坊官として下間筑後、下間和泉、七里三河、坪坂伯耆、松永丹後等の侍大将派遣、10月には、堂衆として武佐広済寺祐乗や赤野井の慶信が配置され、諸戦国大名の方策に倣い、土着の武士を家臣団に組み込み、城下に集つめ戦力増大・対農民支配強化を行います。
(尾山御坊・現金沢城本丸)
(現在も残る尾山御坊の手水鉢)
(尾山御坊が建立場所は、今の金沢城公園の南西隅の一角、旧金沢城の本丸に有り、古文書によると、この地を本願寺が安江村に米6石を支払ったと記されてところから、安江村の入会地(村の共有地)だったと思われます。因みに今の兼六園から石引4丁目、下石引町にかけての台地は田井村の入会地で、村人はここで薪を取り、秣を刈り、また、田畑の堆肥にする雑草が集積さていたようです。)
因みに、金澤(沢)の初見は、本願寺10世証如がお書きになられた天文日記の中の天文15年(1546)10月19日に「加州金澤坊舍」という名前が文献的な「金澤」の初見 と言われています。今も石川県史にも書かれ、金澤の初見の定説になっています。天文日記は別に証如上人日記・本願寺日記・石山本願寺日記などの別名があります。
足利幕府も本願寺を加賀国主と見なし、国役の禁裏修理料の徴収を命じ、幕府の裁定の執行する役割と見なし、例えば石川郡の兄弟間の所領争いや殺人者に対する検断の執行を指示しています。これなどは本願寺が幕府将軍の命により加賀支配に関わっているという合意が前提にあったものと思われます。一向一揆は、この頃になると享禄の争乱で足利義晴・細川晴元に敵対していたのとは真逆で、反権力的、反体制的とは云えない体制に転換しています。
(8世蓮如上人)
(天文5年(1526)以降、証如は諸大名の行う武力抗争や幕府の軍事行動に対して原則不介入の立場を取っています。また、諸大名は本願寺の動員出来る武力を警戒し、本願寺が敵方に協力しないよう、諸大名より要請があった場合もあったものと思われますが、蓮如の云う、仏法・王法の棲み分けがある程度出来るようになります。しかし、そうした中で、織田信長の登場で、もう一度大きな戦乱が訪れます。)
本願寺は、永禄2年(1559)、正親町天皇の綸旨により本願寺が門跡となります。本願寺は証如・顕如と2代にわたって摂関家である九条家の猶子となって門跡に相応しい格式を得たとして門跡への昇格を求めていました。折しも青蓮院門跡である尊朝法親王が幼少で門跡の職務を行い得なかったため、青蓮院の異論が出されないまま本願寺の要求が認められたと考えられています。
門跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことです。
(11世顕如上人)
永禄4年(1561)には僧正に任じられている。顕如の時代、本願寺教団は、証如の時代以来進めてきた門徒による一向一揆の掌握に務める一方、管領の細川家や京の公家との縁戚関係を深めており、経済的・軍事的な要衝である石山本願寺を拠点として、主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置し、大名に匹敵する権力を有するようになり、教団は最盛期を迎えていました。
一方尾山御坊は、弘治元年(1555)、永禄7年(1564)に朝倉氏と、1570年代前半は上杉謙信と、その後は織田信長と対立します。元亀3年(1572)は杉浦玄任を総大将とする一揆勢が上杉軍と数ヶ月に渡って激突、各地で上杉軍を破るなど猛威を振るいます。しかし謙信率いる上杉本隊が到着するに至り戦況が悪化し、越中の尻垂坂の戦いで大敗を喫し、一揆の勢いに陰りが見え始めます。
(つづく)
参考文献:辰巳明著「消された城砦と金沢の原点を探る」清水隆久著「田辺次郎吉」神田千里「一向一揆と石山合戦」吉川弘文館平成19年発行 鏑木悠紀夫著「松任城と一向一揆」北國新聞社昭和63年11月発行 図は一向一揆研究会砺波正夫ほか