【大阪・加賀他】
永禄11年(1568)、織田信長は将軍足利義昭を奉じて上洛し、義昭を通じて影響力を強め本願寺は圧迫を受ける事になり顕如は信長と敵対します。元亀元年(1570)9月、本願寺顕如は全国の門信徒に“仏敵信長を討て”と指令し、織田氏と交戦状態に入り信長は朝倉氏攻略が浅井長政の裏切りで失敗した後、本願寺に5千貫文を差出せと強要し、その一連の抗争が10年間の長期に渡る”石山合戦”およびこれに付随する一向一揆が展開されます。
(尾山御坊跡)
(実際のところ、この10年間は信長と本願寺は常に対立していた分けではなく、宣戦布告から最初の和睦、戦闘の再開から2度の和睦、2度目の戦闘再開から最終的和睦という、「義昭・信長政権との戦い」「長島・加賀・越前一向一揆」「大坂籠城と勅命講和」があります。)
その間、元亀年間に将軍義昭と信長は反目し、義昭は甲斐国の武田氏をはじめ越前国の朝倉氏、近江国の浅井氏ら反織田勢力とともに信長包囲網を構築します。本願寺も信長包囲網の一角を担い、顕如は自ら石山本願寺に篭城し、雑賀衆などの友好を結ぶ土豪勢力と協力し、地方の門徒組織を動員し一向一揆を起し、義昭に味方して本願寺は教団を上げて蜂起します。
(織田信長・Wikipedia)
元亀3年(1571)、越後の上杉謙信が南下し尾山御坊を脅かします。尾山御坊は杉浦壱岐が洲崎兵庫ら北加賀2郡からの援軍を率いて出兵しますが、謙信の軍勢はあまりにも強く、杉浦壱岐は援軍を要請。尾山御坊では坪坂伯耆らは織田信長の侵攻に備え援軍を送らなかったという。謙信軍に富山の尻垂坂で大敗し富山城も占領され、ゲリラでなんとか凌ぎ冬の到来を待つと、本願寺の縁戚関係の武田信玄の牽制もあり、ひとまず上杉軍は撤兵します。
しかし、翌天正元年(1573)4月には武田信玄の死を契機に包囲網が破綻。8月には再び上杉謙信軍が侵攻し尾山御坊が脅かされます。尾山御坊の一向一揆軍は河北郡の花園村の朝日山城、三谷村の松根城が抜かれてはたまらないと鉄砲で防戦し、上杉謙信軍は退いています。
同じ頃、朝倉・浅井・足利などの同盟勢力は次々と織田氏によって滅ぼされ、朝倉滅亡に際し、信長は降将2人を一乗谷(桂田長俊)と府中(富田長繁)の守護代とし、明智光秀らを北の庄に監視役と配置し、自らは伊勢の長嶋の一向一揆討伐の向かう、すると天正2年(1574)正月、守護代に命じた降将がク一デ一タ一を起こし、守護代を命じた2人の降将を倒し、明智光秀らを敗走させ、天正3年(1575)8月、織田軍は大軍を率い木ノ芽峠を越え、迎え撃つ越前門徒衆は数も少なくなり、瞬く間に越前を制圧した織田信長軍は余勢を駆って加賀まで侵攻し江沼・能美の平野部を占領します。
天正2年(1574)2月には混乱に乗じて越前一向一揆が蜂起し、富田長繁と朝倉氏の余党を滅ぼし、越前の悲願であった「百姓の持ちたるような国」実現しますが、本願寺法主直接支配領国としての厳しい管理体制や越前門徒衆が頼りとした超勝寺・本覚寺も期待に応えられず僧農連合の自治共和体制は認められず、諸々の反逆事件が続出し、1年足らずで越前一向一揆は解体されました。
(「朝倉始末記」「信長公記」にも酷たらしい虐殺の状況が記録されていて、有名な信長の書状には「府中町は死骸ばかりにて一面あき所なく、見せたき候」とあり、翌天正4年(1576)5月、前田利家が一向宗徒千人ばかりを捕らえ”釜煎り”の極刑に処したことはよく知られています。)
(上杉謙信と証如上人・Wikipedia)
天正3年(1575)織田信長越前支配に対し、武田氏と同盟して上杉氏を敵対してきた本願寺は、方針を変え”仏敵信長”打倒のため上杉謙信と和し、上杉の軍勢の加賀通過を承認せよという。11世顕如の指令に尾山御坊の坊官・旗本間の統制が乱れ分裂している間に上杉軍は倶利伽羅峠を越え、洲崎・亀田の加賀連合軍が迎撃するが圧倒され逃れるが上杉軍は深追いせず国境線に退き成り行きを見守る作戦にでます。驚いた顕如は、なんとか対立を収拾したという。
(七尾城跡)
天正4年(1576)5月、本願寺は足利義昭の仲介で上杉謙信と同盟します。しかし、謙信は慎重に構えて南下せず、11月に入り津幡に軍を進め、一転して能登の畠山氏を攻略します。当時、畠山氏は信長と同盟し、謙信の南下を脅かし天然の要塞七尾城に猛攻を仕掛けます。畠山氏はよく耐えますが、城内に伝染病が蔓延し畠山義春が病没、多くの将兵が病死する中で重臣の多くが謙信に寝返り、信長方の長一族を殺害し天正5年(1577)9月、七尾城は開城します。しかし、天正6年(1578)3月、上杉謙信は病没します。
(七尾城跡)
拙ブログ
七尾の2つ城跡と山の寺
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11507999729.html
(つづく)
参考文献:辰巳明著「消された城砦と金沢の原点を探る」清水隆久著「田辺次郎吉」神田千里「一向一揆と石山合戦」吉川弘文館平成19年発行 鏑木悠紀夫著「松任城と一向一揆」北國新聞社昭和63年11月発行 フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」