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長町⑨村井家下屋敷(家中町)

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【長町3丁目】

安政の絵図の金沢城下は、赤い道路が目立ちます。よく見ると「○○下ヤシキ」などと書かれ、敷地は白紙で氏の記載がありません。その敷地は延宝の金沢図「○○○○下屋敷」と書かれ、敷地には家紋が描かれています。加賀藩では、3,000石以上の人持組の家臣団の住居が、今の社宅のような宿舎が御屋敷と地続のところやかなり離れたところにもあり、それを家中町(かっちゅうまち)または○○殿町と称されました。大身の加賀八家と云われた上屋敷や家中町は、大きな城下町の中に8つの城下町があるとも云われ、中でも一番大きい5万石の本多家では陪臣(またもの)や武家奉公人と言われた小者が多い時には約800人以上を抱えています。

 

 

(加賀八家中最高の本多家では、1,000石以上の家臣が3人、500石以上が4人おり、1,000千石以上のうちの2,000石を与えられていた者もいたという。これは多くの直臣より高い禄高で、他にも人持組の永原家には陪臣の存在で1,000石の記録に残っており、万石級、千石級の藩士の多くが陪臣を召し抱えていました。)

 

村井氏下邸(家中町)(参考:金澤古蹟志より)

村井氏の下邸は、慶長16年(16119月に賜わり、古定書の屋敷奉行に与えられた奉書によると、

御家中下屋敷

一、17,300

一、43反半215歩  村井出雲

外、人々下屋敷分略写

右中納言様、御諚之並に、歩割書付可遺皆、筑前様就御意如此候。以上

 

四町三反半二畝十五歩は、上屋敷の尻地の下邸と、公儀町の末の下邸と、両地と云われていて、旧藩中は、村井家屋敷の尻地の下邸は上家中と称し大身の家士の住居で、公儀町の下邸を、下家中と称し、小身の者の住居としたとあります。

 

(下屋敷の敷地は、43反半215歩ということは、13千坪42,975㎡)で、現在の長町3丁目は上家中町約8千坪と、現長土塀3丁目(旧公儀町)の下家中町、約4,000坪で、上屋敷は約7,000坪を有しています。)

 

 

 

 

 

 

 

給人とは:陪臣団の最上級層で、家政(財政・軍政両面)を取り仕切る幹部です。彼らの出自は早くから仕えた譜代が中心ですが、中には江戸中期以降に召し抱えられ23代にわたり功績を積んで給人へ昇格した者も少なくないといわれています。

 

陪臣(またもの)、又家来とは:直臣(じきしん)直参に対することばで、 江戸時代には将軍からみて、諸大名・旗本の家臣をさし、幕府法令ではこの意味で使用された。大名の家臣もまた家来をもつ者は、この家来は大名からみると家来の家来すなわち陪臣であり(将軍から見ると倍々臣)、直臣と陪臣の差は、封建制において重要であり、実際の職制や社会権力とは別に直臣の方の家格が高いということで、主従関係においては、その組織の長であっても、原則的には陪臣に対する指揮命令権は持たず、また陪臣も主君の主君に従う義務はなく「臣下の臣下は臣下ではない」とし、陪臣とは主従関係は無く、海外でも同様の身分に対して使用されることもあったと言われています。

 

(明治2年(1869)の調べによると加賀藩には7,500以上の「陪臣」がいたとされています。)

 

(つづく)

 

参考資料:「金沢古蹟志」森田柿園 金沢文化協会 昭和8年発行ほか


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