【長町3丁目】
今年はNHKの大河ドラマで明智光秀を題材にした「麒麟がくる」が放送されるそうですが、今回は村井家2代長次に再嫁した前田利家公の正室まつ7女千世(春香院)について少しだけ紹介します。千世は、豊後細川家初代の細川忠興の嫡子忠隆の正室(ともに17才)に迎えられます。義母は、明智光秀の娘の細川ガラシャでした。
(金沢城)
慶長5年(1600)旧暦7月17日、徳川家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵し、三成らは細川忠隆の母ガラシャに人質となるよう迫り。ガラシャは拒絶して大坂玉造の細川屋敷で自決します。忠隆の正室千世(前田利家公7女)は隣に住む姉豪姫(前田利家公4女・宇喜田秀家正室)の宇喜多屋敷に逃れます。当時、夫忠隆は父細川忠興とともに会津遠征や岐阜城攻撃の途上で、関ヶ原の戦い(旧暦慶長5年9月15日)では東軍に属して種々の戦功で、徳川家康からの感状を得ています。
(村井家居屋敷跡の前に掛かる案内板)
(村井家居屋敷跡・市立中央小学校)
ところが同年10月になって忠隆の妻の千世が大坂玉造屋敷から乗り物で前田邸に逃れます。ガラシャ自刃(旧暦慶長5年7月17日)の際、脱出したことを咎められ、千世(20才)は細川家を離縁され、忠隆は、父の細川忠興から妻を離縁して千世の兄前田利長公のもとへ追い払うように命ぜられ、忠隆は千世との離縁に納得せず、彼女をかばって前田家を訪ねて助力を求めたが、ガラシャを失った忠興の怒りを買い勘当されます。さらに慶長9年(1604)には忠隆は廃嫡されます。
(前田利家公の銅像)
(細川忠隆と千世は、結婚後約4年にして廃嫡となりますが、細川家の分家に伝わる伝承では、千世は、離縁後すぐに加賀に戻ったわけではなく、離縁された後も廃嫡された忠隆公に付き添い、約10年京都で暮らし、さらに徳姫など4子女を生んだそうです。廃嫡の原因は、千世は前田利家公の娘だったので、前田と細川の姻戚関係を徳川家は好ましく思っていなかったため、父忠興はこの際に千世を離縁して前田との関係を絶とうとしたが忠隆が承知しなかったのだと現在では解釈されているそうです。)
細川忠隆は剃髪し、祖父幽斉の信長所縁の名字から長岡休無と号し、千世と長男の熊千代を伴い京都で蟄居し、熊千代は同年のうちに夭折し、空性院即謳大童子として西園寺に葬られています。千世は細川家からは離縁されたが、休無とは離縁していなかった。千世はのちに京都を離れて加賀国に帰り、1万7千石の人持組頭の村井家2代目の村井長次と再嫁しています。
(金沢城)
再嫁後は長次との間に子はなかったものの、養子長光(織田長孝の子で、織田有楽斎の孫にあたる)をとり、村井家が長町に邸宅を移した翌年慶長18年(1613)に長次が死去したあとは、落飾して村井家で春香院と名乗り、寛永17年(1641)金沢で死去、享年62歳、墓地は野田山にあります。
(尚、千世が村井長次に再嫁した時期につきましては、慶長10年(1605)としている資料もありますが(日置謙「加能郷土辞彙」など)、加賀藩の公的な記録などでは千世の再嫁の記述はあってもその時期について記したものはありません。しかし、前にも書きました細川家分家の伝承では、約10年京都で暮らしたとあり、長次と金沢城北丸で供に過ごしたのは僅か数年?後は長町の居屋敷で春香院として28年過ごした事になります??)
(玉川近世史料館)
千世(春香院)は芳春院の末子でもあり、子供のうちで最も可愛がられたようで、春香院宛の芳春院自筆状が金沢市の玉川近世史料館や前田土佐守家資料館などにあります。
(明智光秀模写)
(今年の大河ドラマ「麒麟がくる」には、細川ガラシャや細川忠隆、千世の出番があるかどうか分りませんが、今まで明智光秀の裏切り者と言うマイナスイメージをくつがえし、ポジティブな面に光を当てたものになると言われていますので、今から興味津々です。)
(つづく)
参考文献:「加能郷土辞彙」日置謙著 金沢文化協会 昭和17年2月・ウィキペディア百科事典ほか