【金澤・江戸】
”加賀騒動といわれる事件は、実在せず、大槻伝蔵を葬り去るためのデッチ上げある”
(上記のフレーズは、戦後、“加賀騒動”の多くの研究者や小説家の中では定説になっています。)
今も週刊誌やWeb、SNSで人気のネタに特権階級のスギャンダルがありますが、藩政期、特権階級であった大名家の内紛が、庶民の噂話に恰好のネタになり、当時、実録本や歌舞伎・狂言の御家物と呼ばれ、庶民に拍手喝采を浴び、やがて、尾ひれがつき、面白可笑しく誇張され講談等を通じて地方にまで広まったことはいうまでもありません。特にお家騒動として庶民に知られるようにった「加賀騒動」「黒田騒動「伊達騒動」の三大お家騒動は特に有名です。
(大名家では、藩主やその一族、家老などの一団の領袖となりうる立場の人間が派閥を作りあげて内紛を繰り広げた例が数多く、その栄光と没落の異常ともいえる人間模様に溜飲を下がる庶民がいかに多かったことか、それも落差が大きい程、拍手喝采を得たという。抗争の原因として最も多いのは、家臣間の対立である。古参ともいうべき譜代の家臣と新参の家臣や出頭人との対立、藩政改革にともなう守旧派と改革派の対立など、家臣間には主導権や藩政の方向性をめぐってあらゆる派閥抗争の動機でした。)
関ケ原から約150年の藩政中期、加賀藩では最初の本格的な経済危機に直面します。当時、藩政を78年間に渡り担ってきた5代綱紀公が隠居し吉徳公が継ぎます。その頃、先代の財政政策が影響し、享保15年(1730)頃には、藩自体と同時に藩士の生活にも困窮の色が濃厚になってきます。
(5代綱紀公は、享保8年(1723)5月6日、家督を4男吉徳公に譲って隠居し、翌享保9年(1724)5月9日に82歳で死去。)
しかし、政治は先代綱紀公の定めた加賀八家に仕切られ、古格重視で何にもしない八家では力になるよりむしろ邪魔にしかならない事を悟った吉徳公は、身近に才能のある助言者を必要とします。それが大槻伝蔵だったのです。
(古格重視とは、昔のやり方や古くからの格式を重んじるという思想で、ここでは5代綱紀公のやり方を状況に見合わなくても重視するということから、世襲制の加賀八家(年寄)や重臣(官僚)は思考停止状態で、今時の2世議員にもこの病が蔓延しているのでは無いかと思われます?)
吉徳公は、常々助言者には、家柄とか門閥など待たぬ、藩全体の生活や下情に通じている者の方が使いやすいと思っていて、ずっと前から白羽矢をたてていたのが大槻伝蔵でした。だから、吉徳公は伝蔵に目をかけていたのは、単なる寵臣というだけではなく、もっと遠くて大きな理由があったからで、伝蔵も主の知遇に報いようとする覚悟が充分にあり、その研鑽を積むことを怠っていなかったと云われています。
(寛保元年(1741)、藩の借銀は2万貫(今の約3,300万円?)同2年には2万3・400貫あり、その頃の藩財政は6,783万貫(今の約113億円?)不足だったと云われています。そこに大槻伝蔵が出る背景になる赤字体質があり、吉徳公は大槻の財政路線に切り替えます。)
注:今の円は、江戸時代後期の換算1両(銀60匁)10万円計算で当時はもう少し高いかも?
”デッチ上げた“のは前田直躬か!?
前田直躬は、加賀八家(年寄)筆頭前田土佐守家の5代当主。加賀騒動の一方の主人公である守旧派の首領。藩主吉徳公から疎まれ月番加判を免じられ、大槻伝蔵による藩政改革で既得権を失った加賀八家ら重臣層の中心人物で、後に実録本や歌舞伎、講談などでも大いに演じられ、勧善懲悪でしかウケないため、物語の中では伝蔵は悪の権化、前田直躬は加賀百万石を救ったヒーローとして描かれています。しかし、現在は、土佐守こそ大槻に濡れ衣を着せた黒幕だという事がよく知られるようになっています。
(前田土佐守家は、八家の内で一番家禄が少ない11,000石ですが、藩祖利家公と室お松の方2男利政の子孫で、八家の内でも藩主の一族として一目置かれていた。加賀藩の年寄は月番、加判制で重要な決定事項を決めていた。)
直躬評は、青地礼幹の「浚新秘策巻十」によると、「土佐守殿には、御才発は抜群に相聞え候へども、御年若に御座候故、諸役人共未致信服候。・・・・。」とあり、その他の古文書等によると、要するに頭が良いが、ズケズケとモノを言う、しかし、生母にやさしく、交友関係が広い、多数の著作を残すなど教養高く、和歌や書に熱心で著名な文人・学者との交流もある文人で、著作には格調高いものばかりでなく、蒸し羊羹の製法をまとめた書などというものもあり、調理法が詳細に紹介されています。
(つづく)
参考文献:前田土佐守資料館講座「加賀騒動の実像について」金沢城研究調査室石野友康氏のレジメ・平成12年(2000)3月10・11日北國新聞掲載の「金沢学序説30大槻伝蔵の衝撃・31加賀騒動の傷跡」等