【金澤・江戸】
大槻伝蔵と藩主吉徳公と云えば昔から衆道関係だったという話が伝えられています。伝蔵の出世はそれよるものだと云われていますが、最近の大辞典やオンライン百科事典(Wikipedia:ウィキペディア)には寵臣とか寵愛と書かれ、ハッキリ衆道とか男色と書いたもはありません。昔の実録本や昭和の小説には「武家社会の男色」があからさまに書かれていて、例えば、戦前の昭和7年(1937)に週刊朝日特別号の大衆小説や脚本、映画監督だった直木三十五の短編「大槻伝蔵の立場」には、伝蔵は前田家の重臣に「朝元は、尻で御奉公を致してをるとばかし思っていたら、頭でも致すのじゃのう、あはゝゝゝ」と云いわれ、それに応じ「命ででも肝でゝも致します」と書かれてますが、しかし、知恵と才覚で加賀藩をすくった英雄として軽妙なタッチで虚実織り交ぜ描かれています。
(直木三十五は、昭和9年(1934)、結核性脳膜炎により東京帝国大学附属病院で永眠。43歳没。没後、菊池寛の発意により大衆文学を対象とする「直木賞」が創設されます。その直木賞は後に村上元三や海音寺潮五郎が加賀騒動を著し「直木賞」を受賞しています。)
(橋爪門の続櫓・現在のモノ)
吉徳公は、加賀藩前田家6代目。5代藩主前田綱紀公の三男。母は側室の預玄院(町、三田村氏)、元禄15年(1702)6月に元服し、祖父光高の従兄弟にあたる第5代将軍徳川綱吉の偏諱を授かって吉治(よしはる)に改名。宝永5年(1708)、将軍綱吉の養女(尾張藩3代藩主徳川綱誠の娘)松姫を正室に迎ますが、享保5年(1714)6月、23歳で亡くなります。(以後正室を持たず側室10人)享保8年(1723)5月、父綱紀公が高齢で病のため、家督を譲られ、その時、名を吉治から吉徳と改め、6月に加賀守を称し8月に左近衛権少将に昇進します。
(生母の“町”は三田村家(3300石)で、父三田村定長は元浪人で娘“町”が綱紀公の側室となった縁で100人扶持となります。“町”は6代藩主吉徳公の生み、その弟孝言は吉徳公の叔父として人持組4000石に登用されるが、その孝言は刃傷事件を起こして知行召上となり、改めてその子定保が3000石を与えられます。)
吉徳公も父と同様、藩政改革に取り組むため大槻伝蔵を重用して改革を行ないます。この頃、加賀藩では綱紀公の改革により家格は御三家に準ずる待遇になりますが、百万石の大藩ともなると何事においても出費が大きかったので、綱紀の治世末期から吉徳公が家督を継いだ頃には、藩財政は厳しいものとなります。
そこで大槻伝蔵のもと、質素倹約、公費の節減、米相場に対する新投機方法の設置、新しい税の制定などの改革が行われ、この財政改革によって、加賀藩の財政はある程度立ち直り、一部は成功し、伝蔵に対する吉徳公の信任はさらに厚くなり、さらなる改革を目指して藩政を主導してゆくようになりますが、これに対して、改革による質素倹約などの制限や、成り上がり者に過ぎない伝蔵に対する嫉妬などが元で、藩内における保守派や門閥層の間に不満が集まります。
(橋爪門二の門と五十間長屋・現在のモノ)
延享2年(1745)、吉徳公は56歳で死去し、跡を嫡男の宗辰公が継ぎ、その翌年、伝蔵は前田直躬ら保守派によって失脚。吉徳公と伝蔵の改革が、後の加賀騒動の遠因となりました。
吉徳公は自身の死の5か月前に生まれた治脩公まで10人の男子を残しますが、継いだ7代宗辰公は翌年に早世し、以後8代重熙公(次男)、9代重靖公(五男)、10代重教公(七男)、11代治脩公(十男)と5代に渡り、兄弟で相次いで家督が相続されますが、姫は喜代(浅野宗恒正室)、総(前田利幸正室)、楊(佐竹義真正室)、暢(酒井忠宜正室)ほか姫3人の18人の子に恵まれますが、男子2人と姫3人が早世し1人は死産しています。
(前田家の略系図と6代吉徳公の正室と側室・一覧表には蘭が抜けてます。ボケてますので詳しいは、ウィキペディアで)
(浅野安芸守吉長の正室の節姫は、前田吉徳公の姉で、吉長よりも年長者で気も強く、しかも、浅野家の嫡男宗恒が節姫との間に生まれたので、吉長は側室を持つことも許されず、吉長も40歳を過ぎると次第に若い女性を望むようになり、お忍びで吉原へ行き気に入った遊女2人を愛妾にしようとし、これを知った節姫は、吉長への抗議のために切腹して諫めたという。吉長はこれに驚いて愛妾2人を遠ざけ、節姫を厚く弔い、吉徳公と相談の上で幕府に対して節姫は急病死と届け出て改易・減封を免れたという。村上元三作加賀騒動に取り上げています。)
(つづく)
参考文献:直木三十五全集2巻「大槻伝蔵の立場」(株)示人社 平成3年7月発行 オンライン百科事典(Wikipedia:ウィキペディア)など