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嫉み、妬みから極悪人にされた男⑥真如院と伝蔵

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【金澤・江戸】

真如院は、加賀藩6代藩主前田吉徳公の側室。名は。父は江戸芝神明宮の神主鏑木政幸。享保18年(1733総姫を、利和(勢之佐)楊姫、益姫、八十五郎23女を生み、延享2年(1745)に吉徳が没したため、落飾し真如院と称します。吉徳公の跡はその長男の宗辰公が継ぐが、在位1年余りで延享3年(1746)に没し、続いて次男の重熙公が藩主となります。加賀騒動では、伝蔵との不義密通浄珠院6代藩主宗辰生母)の毒殺未遂事件デッチ上げられます。

 

(金沢城可北門二の門と菱櫓)

 

(江戸の芝神明宮の神職・鏑木政幸の娘、(一説には八百屋の娘で鏑木政幸の養女)同じ側室の(心鏡院)と姉妹と云われている。は、前田吉徳公の次男8代藩主重熙公の生母。)

 

      

                                                                                                                            

寛延元年(1748)、9歳の八十五郎が藩の重臣村井長堅の養子と決まったため、真如院621日に八十五郎とともに江戸を出発し、711日に金沢に到着します。この間の626日と74日、江戸の藩邸本郷上屋敷において、浄珠院6代藩主宗辰生母)を毒殺しようとしたとみられる置毒事件があり、真如院がわが子楊姫付きの中臈浅尾に命じ実行させた疑いが掛けられます。

 

(延宝の金沢図に今井屋敷と金谷御殿など)

 

712日に飛脚が発ち、17日に金沢に到着。それにより真如院は金谷御殿の縮所に軟禁。さらに真如院の江戸藩邸の居室から、前年、失脚していた吉徳公の寵臣大槻伝蔵の手紙が見付かった?として、大槻との共謀と密通の疑いもかけられ、大槻と対立していた前田土佐守直躬は事件の処分を巡り、真如院と浅尾は死刑、八十五郎は村井家との養子を解消し、江戸の利和(勢之佐)は金沢に引っ越させ幽閉、富山藩主前田利幸に嫁いだ娘の総姫は病気と称して離縁。秋田藩主佐竹義真と婚約中の楊姫も病気と称して解消させるほかない、との意見を述べています。

 

 

 

藩主重熙公によって、真如院の処分は死刑ではなく今井屋敷終身禁固と決められたが、病気もあってそのまま金谷御殿の縮所で寛延2年(1749215日に没します。真如院の希望により、長瀬五郎右衛門が首を絞めたのだという。享年43歳。経王寺に葬られました。なお浅尾は、寛延2年(17491014日に江戸から金沢に送られ21日に殺害されました。

 

(経王寺の真如院の墓)

 

江戸藩邸にいた利和は、寛延2年(17494月に幕府へ病気と届けて金沢に移され、上野村の屋敷に幽閉され、宝暦9年(1759)に25歳で没。八十五郎は、村井長堅との養子を解消され、金谷御殿に幽閉され、後に高畠定賢の宅に移され、宝暦11年(1761)に21歳で没ます。娘2人には累が及ばず、総姫は離縁することはなく、楊姫も宝暦2年(1752)に佐竹義真に嫁いでいます。

 

(藩政期の経王寺周辺)

 

毒殺未遂事件の動機は、真如院が藩主重熙公の養育役も務めていた浄珠院を邪魔に思い、亡き者にしようとしたためであるとされていますが、真如院は吉徳公の側室の中で最も寵愛され、生んだ子女は5と最も多く、当時の藩主重熙公(民の子)の伯母であり、重熙公のすぐ下の弟である利和(勢之佐)の生母。こうしたことから嫉妬を受け、江戸藩邸を出立した後を見計らって陥れられたのではないかとされています。利和に代わって重熙公の仮養子となった嘉三郎(重靖)の生母善良院と、前田直躬が互いの利害の一致から結託して仕組んだ?と云われています。

 

(天徳院)

(天徳院の出世地蔵・藩政期は勢之佐と八十郎の墓に有った地蔵尊)

 

明治時代の認識(金沢古蹟志)

真如院は、旧藩中将吉徳公の側室にて、勢之佐の生母。大槻内蔵允のため、中将宗辰公の毒害のことが露見し、今井屋敷に禁固せられ、この屋敷で幽死したという。前田家略譜に云う、勢之佐(利和)生母名は、江戸芝神明神職鏑木内膳政幸女、後称真如院。寛延元年(17507月有罪で金沢の金谷別舎今井屋敷今井監敷で寛延2年(1751)2月幽死。43埋めたのは小立野経王寺境内とあり、今も同寺境内に墳墓あり。俗伝に、この地に生きながら埋め込み、蛇責めに命いじられ、故にこの墳墓の辺りに蛇の穴多く蛇はなはだ多しと言い伝えたと云われているが児童の俗諺(俗なことわざ)で証拠に足らず。大槻内蔵允真如院との陰謀ことごとく露見し、真如院は仮の座敷牢を建てて押し込められ、勢之佐殿は小立野天徳院の境外に蟄居せしめられ、局浅尾は重罪の者として蛇責めという刑が行われるべきところ、禁牢の内、舌を喰い切り死せしとも、また断食して死すとも云うとあり。

 

・上記は明治時代に森田柿園が「金沢古蹟志に書かれたものを読みやすく書き直したものです。これによると藩政期の実禄本を踏襲したもので、まさに明治時代の認識であったと云えます。

 

 

(大正時代の天徳院の絵図・赤いところは勢之佐・八十五郎の墓)

 

拙ブログ(加賀騒動の勢之左、八十五郎供養出世地蔵)

小立野旧町名②旧松下町

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12374903323.html

 

(つづく)

 

参考文献:「金澤古蹟志」巻七 城外大手辺 巻十一 城東小立野台下 オンライン百科事典(Wikipedia:ウィキペディア)など

 


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