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嫉み、妬みで極悪人にされた男⑦内蔵允と前田直躬・青地礼幹(藤太夫)

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【金沢・江戸】

藩政期の実録本加賀騒動などでは、大槻内蔵允(伝蔵)は悪人中の悪人で加賀八家前田直躬加賀藩を救ったヒーローという形で一件落着します。しかし、昭和になると直木三十五、海音寺潮五郎、村上元三などの大衆小説では、前田直躬はじめ守旧派の加賀藩士吉徳公が唯一後ろ立ての大槻内蔵允の対立も描かれています。今回は、内蔵允に敵意を持つ旧例古格重視を標榜する加賀八家の前田直躬や室鳩巣の弟子で当時小将組頭の青地礼幹(藤太夫)に焦点を当て、彼らが世嗣宗辰に提出したという内蔵允弾劾の訴状の内容について触れます。

 

(金沢城石川門と菱櫓)

 

前田直躬は、前田土佐守家5代目で加賀騒動の一方の主人公で守旧派の首領。大槻内蔵允による藩政改革で既得権を失った加賀八家ら重臣層の中心人物で、内蔵允の排斥を唱え続けたが聞き入れられず、次期藩主である前田宗辰の取り込みを図り、寛保3年(1743)から翌延享元年まで4に渡って弾劾状を宗辰に提出し続け、このため吉徳公の怒りを買って延享元年(17447月、月番を罷免され、以後吉徳公在世中は手が出せず、延享2年(17456月、吉徳が亡くなると、延享2年(1746)には内蔵允を吉徳毒殺?の嫌疑をかけて断罪し、蟄居に追い込み流罪とし、これにより藩政改革は破壊され、寛延元年(1748)には8藩主前田重煕毒殺未遂事件とこれに関連して浮上した家督問題を理由に内蔵允を自刃に追い込み、大槻一派に対し徹底的な粛清を行い、これを壊滅させます。

 

(前田直躬)

 

(前田土佐守家は、加賀藩初代前田利家公の二男前田利政を家祖とする加賀藩重臣の家系で、豊臣政権時代に大名であった利政は関ヶ原の戦いでは東軍への出兵を拒否したことにより改易になりますが、嫡子直之の代から加賀藩2代前田利常公に仕えて加賀八家の筆頭となり、以後、本家では断たれた利家公の正妻芳春院の血筋を伝えることもあり、代々筆頭重臣の地位を占めますが、家禄は11000石で、加賀八家の中で最も少なかった。(加賀八家は執政で、家老より格上の存在。)

 

 

(前田土佐守家(長家の上)・青地家(村井家右隣)安政の絵図より)

 

青地礼幹(藤太夫)は、藩政期の加賀藩士で儒学者。延宝3年(1675)、青地定政の子として生れ、父定政は、加賀八家本多家(5万石)の一族から青地氏に養子入り、米沢藩家老直江兼続の弟大国実頼の曽孫で、礼幹(藤太夫)の兄斉賢(兼山)と共に、室鳩巣を師とし、藩主5代前田綱紀公、6代吉徳公に仕え、新番頭、小将組頭などを勤めた。加賀騒動では、寛保2年(1742)、加賀八家本多政昌宛に大槻伝蔵の弾劾状を送る。

 

拙ブロウ(学者青地斎賢と弟礼幹の邸跡)

長町④長町1丁目の藩政期・・・

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12553958842.html

 

(前田土佐守資料館)

 

世嗣宗辰に送った内蔵允弾劾状の一部

一、金沢城獅子の御蔵に埋蔵されている御先祖利家公以来の軍用金を大坂蔵屋敷へ移管して蔵屋敷衆の運用にゆだねたこと、一朝有事の時には、どうするのか、これは弾劾の対象である。

一、君侯(吉徳公)が大槻を御寵愛のあまり奥へも召し連れ、泊番の時は、隣室の大槻を臥

かせるなど、君侯の徳を汚すものである。

一、国家老前田修理と大学父子をはじめ、御小将三輪藤兵衛などが味方になり、大槻の屋敷

へ出入りしているが、これは君侯の思し召し叶わぬ不忠の家臣たちであろう。

一、軍備の大胆な削減、縮小。先年松雲公(5代綱紀公)の工夫なされた足軽十組の調練も玉薬節約のためと称して廃止したこと、国家非常の役に背く。

一、町人に苗字帯刀を許して、臨時の下役人に任じ、年貢の取立を行わせ収納高に応じた口米(手数料)を給することにしたのは、藩の掟に反する。

口米というのは、本年貢に付けられた一種の付加税で、徴税のための事務の手数料とし臨時下役に給す。

一、大槻の徴税策は、従来の村役人ではなく民間人にやらせて、事務税をその人に給することになる。

徴税業務を、民間にやらせるということは、それに携わる村役人多数の失職を招いたかもしれない。

一、江戸屋敷の月俸を、値段聞役などを設け減らしたこと、専横至極のことである。等々

 

弾劾状は、一つずつ例を引き、例えば、大槻が吉徳公の手をとってお庭を歩くなど、下剋上の振る舞いであって見るに忍びない、歴々の役人など恥を知らぬもの者たちが、追従軽薄をもって大槻に取りいって立身のみを心掛け、家中士風はなはだ乱れている。これはみな君候御寵愛から起ったことであると書き、これらの趣をもって御推察下されたくと結んで、青地藤太夫、安房守様へ。と云う長文に渡る訴状です。

 

 

 

青地の弾劾状に挙げてある例は、作り事ではなく一つ一つ事実ですが、青地の解釈は、内蔵允は成り上がり者で、今日の地位に上がったのは、吉徳公の寵愛によるもので、内蔵允の能力や働きを最初から認めようとせず、内蔵允が私利私欲を計ることから出ていると一方的に解釈しています。

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀騒動」村上元三著 光文堂 201512月発行 オンライン百科事典(Wikipedia:ウィキペディア)など

 


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