【金澤・江戸】
私事で少し恥ずかしい話ですが、小学校低学年の頃、祖母から聞いた“浅尾の蛇責め”の話がおどろおどろしく、トラウマになっていたのか長いこと「加賀騒動」については思考停止状態で、詳しく調べたこともなく、しかも「浅尾の蛇責め」は “史実”だと思いこんでいました。
(雪の金沢城橋爪門と続櫓)
今回調べてみて、幼児期を金沢で過ごした作家の鏡花も犀星も、幼少のころ“浅尾の蛇責め”を聞き、舞台上での蛇責の苦しみにおののいた幼児体験を聞くにつけ、私の子供の頃までか?金沢では、“幼児教育”か“しつけ”かは良く分かりませんが「悪いことをしたらこんな目に遭うぞ!!」と恐怖心を植え付けるために「照円寺の地獄極楽図」と共に「加賀騒動の蛇責め」の話が語られたのだと思えてなりません。今、思い出しても身震いするほど怖かった事が蘇ります。
(天徳院)
(今シリーズ⑥に書きましたが、現代の歴史家や大衆小説の作家は、加賀騒動は全くのデッチ上げだと云いますが、明治以前の歌舞伎や浄瑠璃、村芝居や語り物では“浅尾の蛇責”が売り物で、浅尾の極限状況に焦点をあて、お家騒動は単に物語の筋立てで、成り上がり者に対しての嫉み、妬み、僻みにしか過ぎないと云っても言い過ぎではありません。)
(雪の菱櫓)
虚構の浅尾の“蛇責め”は、金沢で幼時体験とした者には脳裏に焼きついて、虚構か史実には関わりなく、“蛇責”いう極刑の凄みと怪しさ、そしてエロチシズムとグロテクスを感じた最初ショックだったと思います。もちろん、歴史的事実や古文書には、蛇責なんて刑は確認されませんが、物語上の浅尾は、あくまで、美しく身を投げうち、大罪を犯してまでも恩義に報いようとした女心に“蛇責の一場“は、当時、私も含め金沢の子供たちの心に強烈なインパクトを与えたことは当然で、私に限って言えば、60有余年間、事件を確認することもなく加賀騒動や浅尾に対して、思考停止になったのではと思います。
(蛇責め:大きなかめに裸体にした浅尾を入れ、かめに穴を開け、首だけを出させ、数百匹の蛇をその中に放して全身に巻きつかせ、次にかめいつぱいに酒を注ぎこみ、蛇は酒を呑んで苦しみもがき、かめから這い上がって逃れようとしても蓋に邪魔されてどうにもならず、ついに浅尾の裸身の穴という穴から入りこみ、食い破り、身体を縦横に貫き通した。と語られています。)
(雪の玉泉院丸庭園)
世間の噂とか伝承は、ずうっとそれが伝わり有名になると、あたかもそれが真実のように誤解してしまいがちです。特に歌舞伎や浄瑠璃、実録本が評判になれば、間違って認識されたり、評価されることは、往々にあることですが、史実は正しく把握しておく必要ります。しかし、エンターテイナーの世界では、史実のまんまでは、大衆に受けるモノであり続けるには難しく、デマや興味本位で有ってもメリハリをつけ誇張されることもあります。
(江戸中期の戯作者近松門左衛門の芸術論(虚実被膜論)に、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えたと云われています。芸術は虚構と史実の中間、つまり事実だけでは面白くなく、全く作り話でも、また、面白くなく、作品として扱う事になると、虚構と史実の中間が一番面白いと云っていますが、江戸時代の歌舞伎では加賀騒動の上演が公認されていたわけではなく、加賀騒動は、歌舞伎の「見語大鵬撰」や浄瑠璃の「加賀見山旧錦絵」と外題を変え、前田家も、芝居のなかでは入間家などと名を変え、時代も江戸期でなく鎌倉時代に設定されています。)
(経王寺に残り真如院の墓)
P,S
藩政初期、徳川家の球姫(天徳院)が利常公に嫁いだとき、中臈として差し向けられた娘がいました。父は幕府の御舟奉行で、娘は武芸にもたけ、しっかり者で、球姫の傍に仕えお世話をなさいました。ところが球姫が亡くなり「自分は主人(球姫)が亡くなったのでお暇を頂き江戸に帰りたい」と申し出たそうです。加賀藩では、下手に帰ってもらって幕府に何でも云われ、加賀藩の内情が幕府に知れることを恐れて許可を与えず、しかも密殺したという事件が有ったと云います。その時の罪状は、球姫が亡くなった時、傍にいながら充分な看病もせず、お傍付きの若侍と不義密通をしていたとデッチ上げ“捕えられたと云われています。捕えられた中臈は裸にされ蛇の大樽に押し込め、“蛇責め”で殺したという。この話が加賀騒動を歌舞伎や浄瑠璃の演出に際、芝居に凄みを出すためにパクった!?のでしょう。そうそう、明治時代に発行された「金沢古蹟志」にも、子供の俗諺で証拠はないとしながら、お貞(真如院)も浅尾も“蛇責め”で果てたと云う噂が書かれています。
(つづく)
参考文献:「百万石をたばかる、大槻伝蔵の奸計加賀騒動」作者不詳・青山克彌訳 1,981年12月 教育社発行・歴史講話「加賀藩における悲劇の人物」佐奇神社宮司鏑木悠紀夫 平成3年講話台本より 「金澤古蹟志」金澤文化協会 昭和8年8月15日発行