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嫉み妬みで極悪人にされた男⑨映画「加賀騒動」と大友柳太朗

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【江戸・金澤】

映画「加賀騒動」は、大友柳太朗が大槻伝蔵に扮し、昭和28年(1953)に制作されたもので、小学生だった私はリアルタイム再映でも見ていません。その頃、金沢が映画に取り上げらる事などめったになく、大人たちの話や町に貼られるポスター等から子供達にも記憶に残る重大な出来事でした。

 

 

(大友柳太朗は、当時、映画館はディズニーの白雪姫やバンビなど学校からの映画鑑賞か近所の子供等とスメル館の西部劇へ行ったくらいで、その頃、流行り出した東映のチャンバラものなどは行ったこともなかった。唯一見たのが公民館の視聴覚部が開催する夕涼み企画で屋外上映された16㎜の白黒映画。嵐寛松島とも子「鞍馬天狗」大友柳太朗「怪傑黒頭巾」位のもので、当時でも嵐寛は随分じいさんに見え、それと比べて大友柳太朗は私にとって、錦之助、千代介も片岡、市川の御大も知らないのでスターの中のスターでした。映画館で初めて大友柳太朗を見たのは総天然色映画「鳳城の花嫁」で中学に入ってから再映館でした。)

 

 

その頃、「加賀騒動」はサンデー毎日に連載された長編歴史物で小説家村上元三氏の原作、藩政期から江戸や上方、金沢でも上演された歌舞伎や浄瑠璃で人気を博した「加賀騒動」を、新らたな視点で書かれモノの映画化で勧善懲悪は変わりませんが、ただ、善玉が大槻伝蔵、悪玉が加賀八家の前田直躬という筋書きで、監督松田定次脚本は人間と社会を見つめた力感あふれた作品を作って人気があった橋本忍。俳優陣は、当時東映映画の時代劇俳優大友柳太朗、女優では山田五十鈴、脇役人では大友が所属した新国劇は重鎮や男優陣が出演しています。

 

 

橋本忍:戦後日本の映画界で世界の映画界にも影響を与えたという、スケールが大きく、緻密で骨太な脚本家。脚本家としてデビューは、黒澤監督作品の「羅生門」で、橋本忍の脚本は自分と考え方の違う脚本家たちを集め、議論を重ね、自身が主導権を握りながら集団創作していくもので、脚本を1人で書いては、がっしりとした構成で気骨のある作品ができない黒澤監督にも認識を改めさせた。という。以後、意欲的な監督たちとも組み、人間と社会を見つめる力感あふれた作品を次々と世に送り出します。また、大木実主演の「張込み」は低予算で娯楽作を作る映画監督と見られていた野村芳太郎の作風を社会派でサスペンスタッチなものに一変させます。詳しくはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia参照。』)

 

 

映画「加賀騒動」の簡単なあらすじ

享保(1716817366)年間。加賀藩で小身の大槻伝蔵は、藩お抱えの加賀鳶と旗本火消との衝突を見事にさばき貫録を示した!!そればかりか恋人お貞の友、お民を藩主吉徳公の側室に取り持ちます。江戸の加賀藩屋敷では伝蔵の地位は急激に上り、やがて吉徳公

の名代として国許への使者を仰つけられ、加賀へ着到のとたん、軽輩伝蔵の名代を怒った国家老前田土佐守(直躬)の命によって謹慎になり、結局は吉徳公直々の手で罪を解かれ、加えて二百五十石の増俸をも得ます。

 

加賀藩では一旦抱いた疑いは去りようもなく。この疑いは、さらにお貞お民の後を襲って吉徳公の側室に収まったことから一転し、伝蔵を栄達のためにはすべてを犠牲にして顧みぬ狂的なエゴイストとします。

 

 

2、3年を経て彼は1980石の大身になり、伝蔵権勢欲はまだまだ尽きなかったが、吉徳公の急死によって情勢は一変、正嗣宗辰をたてる前田土佐一派は伝蔵がお貞の方の後見としてその腹心浅尾を局に推した事をもって庶嗣勢之佐の襲跡を企てるお家乗取りの策とし、はげしく訴追。幾多の濡衣と戦い逆臣の名を拒みながら、すべて空しく、彼は自らの命を絶っていった。という!!

 

加賀鳶は、享保3年(1718)、八代将軍吉宗が禄高一万石以上の藩に対し、江戸藩邸を守る大名火消を設置するよう命じたのを受け、加賀藩では江戸上屋敷の防備のため設置されていた自衛消防隊を豪華なものに増強した、これが加賀鳶の始まりであるとされています。加賀藩お抱えの火消しは、勇猛果敢な活動と華麗な装備で知られ、当時の浮世絵や歌舞伎の題材になったこともあり、大名火消しといえば加賀鳶のことを指すようになります。享保3年(1718に各自火消として組織した加賀鳶定火消の仙石兵庫久治配下の臥煙との消口争いが発生しています。)

 

 

 

前にも云いましたが私は映画を見ていませんので、村上元三の原作から推し量るしかしかありませんが、多分、食いつき部分の加賀鳶の町火消しの消口争いの場面は、調べて見ると伝蔵5歳の頃に起こった事件を使い、そこから発生するお貞(真如院)との出会いは小説ですので当然フィクションで、以後、幾つかはこの様な手法を用い迫力ある伝蔵の人間像を描き出されています。何と言って巷説や俗説にまみれた今までの「お家騒動」の実態を追究し、“極悪非道の逆臣”という伝説が真逆で、陰湿だった伝蔵像溌剌とした青年武士として描かれています。

 

  

 

当時、東映の「加賀騒動」はかなり評判の映画だったらしく、その後、著名な小説家や地元の大学の先生、郷土史家などによる研究には、かっての“極悪非道の逆臣”伝蔵は払拭されています。

 

(つづく)

 

参考文献:「百万石をたばかる、大槻伝蔵の奸計加賀騒動」作者不詳・青山克彌訳 198112月 教育社発行・「金澤古蹟志」金澤文化協会 昭和8年8月15日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)・Amazon村上 元三の加賀騒動 (光文社文庫)など

 


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