【江戸・金澤】
大槻伝蔵に関わるモノや建物は、このシリーズで紹介したモノとしては、しいのき迎賓館の「椎の木」、石川護国神社の「五葉松」、寺町承寺の「手水鉢」、仏様の片町新天地「地蔵尊」、建物では、中央通町法船寺の「玄関の式台」ですが、他にも私が知っている限りでは、紫錦台中学の正面玄関前に有る大槻邸に有ったと云う「極楽橋」があります。それぞれは数百年の歳月を経た今も大切に保存され、しかも周りで見守る人に聞けば、およそ極悪人と云われた大槻伝蔵の遺物とは思えず、誇りを持ってお預かりされている様子が伝わってきます。これだけを見ても藩政期でも金沢の人にとって大槻伝蔵は誇るべき人物で有ったことが証明出来ます。
今も語り継がれている逸話
遠田家は代々前田家の家臣で、遠田勘右衛門自省が御近習定番頭だった頃、加賀藩6代吉徳公から藩への功労で加増されることを言い渡したところ、自省は断り、代わりに「躑躅(つつじ)」を頂きたいと望み、80本の「つつじ」を拝領したといわれています。自省は有能な家臣だったようで、吉徳公より2度の加増を断ったにも関わらず、元文5年(1740)12月、500石を加増し人持組へ登用すると云われ、藩主の命と云うことで最終的に人持組を拝し1050石取りになったといわれています。自省が加増を固辞したのは、色々云われていますが、どうも遠田家の分からの遠慮と大槻伝蔵の存在が有ったと云われています。
(遠田家の先代は禄350石の平士で一足飛びに昇進に強い抵抗が有ったと云う見方と伝蔵の異例の出世を目の当たりにし、異例の出世は藩内の怨嗟の的となり、自省は伝蔵を教訓に「出る杭」になるのを避けたという見方があります。)
拙ブログ
遠田の躑躅(つつじ)
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10523252136.html
児玉弥藤次は、5代綱紀公の時代、掃除坊主児玉正斎というものの次男で、6代藩主吉徳公がまだ世子のとき居間坊主で、後に加賀騒動で知られる大槻朝元(伝蔵)と共に吉徳公に奉仕し、朝元(伝蔵)と等しく寵幸され、追々、大槻と同様にお取立てられ享保15年(1730)新知130石を賜り、以後、何度も取立てられ、都合1080石になり延享2年(1745)大小将組となるところ、同年11月願いに依って馬廻組になり、宝暦11年9月、57歳にて歿す。子孫連綿した。
拙ブログ
児玉小路(こだましょうじ)
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10582313141.html
大槻伝蔵略年表
元禄16年(1703) 1月 1日 大槻七左衛門の3男として生まれる。 享保 元年(1716) 7月 6代藩主吉徳公の御居間坊主として出仕。二人扶持2両。 享保11年(1726) 7月18日 切米50俵定番御徒並み、通称伝蔵、諱は朝元。士分に列す。 12月21日 新番組に列し新知130石。仙石町に新居を構える。 享保19年(1734) 5月13日 役料150石を受け物頭並みとなり、名を内蔵允と改める。 元文 元年(1736) 2月24日 知行750石、役料150石、藩の火消役となる。 12月20日 知行980石、役料180石となる。 元文 2年(1737)11月 6日 前田修理知頼(家老兼小松城代6000石・役料3000石)の娘廉を娶る。 元文 5年(1740) 12月 3日 知行2080石、役料200石、御馬廻頭並となる。 寛保 元年(1741) 2月26日 知行2300石、人持組に列する。 寛保 3年(1743) 千日町に周囲330間の下屋敷を賜る。 12月 知行3800石を給す。 延享 2年(1745) 6月12日 6代吉徳公急死(56歳)宗辰公が藩主を継ぎ伝蔵近習から表向に転ず。 延享 3年(1746) 7月 2日 吉徳公の一周忌後、吉徳公の病中不当を理由で本多政昌邸に召喚され、蟄居を命じられる。 12月 8日 7代藩主宗辰公没。(22歳)重煕公8代藩主になる・翌年1月26日 延享 4年(1747)12月 18日 宗辰公一周忌に再び本多政昌邸に召喚食禄没収。越中五箇山の縮屋に 禁固に命じられる。 寛延 元年(1748)4月18日 伝蔵金沢を出発、五箇山の祖山村に送る。 9月12日 重煕公毒殺未遂事件発生。真如院拘束され?(46歳) 寛延 2年(1749) 2月15日 真如院死亡 |
その他
(参考:ブログ高桑氏族、覚書122にある「百万石をたばかる大槻伝蔵の奸計「加賀騒動」の訳者青山克彌先生の「巷説・史実・両加賀騒動の相違対照表」を引用 blog.goo.ne.jp › dimd64」
「巷説・史実・両加賀騒動の相違対照表」
「巷説加賀騒動」大槻、家老となる。
「史実加賀騒動」その事実なし。世襲職である加賀藩家臣の最高職「家老」に大槻がなる事は出来ない。
「巷説加賀騒動」大槻、お貞と密通。
「史実加賀騒動」側室のお貞(真如院)、寛延元年(1748)7月、江戸藩邸から、初めて国許金沢城入り。大槻は、既にその3ヶ月前の4月、越中五箇山の流刑小屋に禁固。両人が、城内で顔を合わせる筈はない。
「巷説加賀騒動」大槻、帰国途上の吉徳を越後の川で、故意に落馬させ、吉徳急逝。
「史実加賀騒動」第6代前田吉徳公、金沢で病死。延享3年(1745)6月12日。(大槻は、吉徳に重用され、3800石の大身にまで出世。故に吉徳は、大槻の大恩人である。それを殺害とは、誰もその物語設定に疑問を持つ。)
「巷説加賀騒動」江戸藩邸内の大槻、家来に命じて、第7代・宗辰(むねとき)毒殺に成功。
「史実加賀騒動」宗辰の死は病死、延享3年(1746)12月8日。その5ヶ月前、大槻は吉徳公の看病不行届の廉(かど)で、国許蟄居を命じられ、江戸には居なかった。
「巷説加賀騒動」大槻、帰国前、奥女中頭・浅尾に命じて、8代重熈(しげひろ)公、毒殺を命じて置く。
「史実加賀騒動」重熈毒殺未遂事件は、史実でも、実際に2度も起きた不審極まる事件である。しかし大槻は、その数ヶ月前、既に越中に配流されていて、無関係。
「巷説加賀騒動」大槻、越中五箇山の縮所(しまりしょ、牢)で自害。
「史実加賀騒動」寛延元年(1748)9月13日自害。
「巷説加賀騒動」浅尾、蛇責めの刑に処せられる。
「史実加賀騒動」その事実はない。寛延2年、藩は禁固中の浅尾を、密かに殺害。
「巷説加賀騒動」お貞、浅尾の蛇責めを眼前にして、衝撃で病となり死ぬ。
「史実加賀騒動」側室真如院は、浅尾の刑死より、8ヶ月前、幽閉されていた金沢城出丸で、自ら望んで縊殺されたと伝えられる。
(おわり)
参考文献::「金沢古蹟志」金澤文化協会 昭和8年8月十五日発行・ブログ高桑氏族、覚書122にある「百万石をたばかる大槻伝蔵の奸計「加賀騒動」の訳者青山克彌先生の「巷説・史実・両加賀騒動の相違対照表」他