【江戸・勘定奉行所】
「貨幣は国家が造るもの、たとえ瓦礫であっても行うべし」のフレーズは、本当に荻原重秀の言葉かどうかと言う疑問もありますが、重秀は元々謎の多い人物で、かなり名前は知れていますが、生涯に関する史料はほとんどなく、まして本人は何の記録も残していなくて、新井白石の「折たく柴の記」や匿名の随筆「武野燭談」など史料はあるにはありますが悪評しか書かれていなようです。
しかし、僅かに残る史料の中で、著者が東武 訊洋子とも太宰春台とも言われている「三王外記」と云う漢文体で記述した歴史書の中にあるそうです。これは荻原重秀が元禄の改鋳後の貨幣の質の悪さを指摘され述べたものらしく、漢文を訳すると“貨幣は国家が造る所、瓦礫を以てこれに代えるといえども、まさに行うべし。今、鋳するところの銅銭、悪薄といえどもなお、紙鈔(紙幣)に勝る。これ遂行すべし。”と書かれているそうです。
(「三王外記」は、幕府の5代将軍徳川綱吉と、6代家宣、7代家継の3代について、その治世の主要な事実や、将軍の逸話などを、漢文体で記述した歴史書です。(注)その頃、各藩には紙鈔(藩札)は存在しました。)
ライバル荻原重秀VS新井白石
新井白石の「折たく柴の記」には、荻原重秀と新井白石の会話が残されているらしく、荻原重秀の貨幣改鋳を白石の批判に対し、重秀は応えているもので、要約すると「改鋳から、世間では陰でいろいろと非難しているようですが、この方法によれば13年分の国費をどうすべきだったのかと述べていて、特に元禄16年(1703)の冬のような場合は、この改鋳という方法によらなければ、急場を救うことができなかったと主張されています。」
(元禄16年の冬とは:元禄大地震のことで、元禄16年11月23日(1703,12,31)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震、(震源は相模トラフ沿い、死傷者数:6,700人以上(Ⅿ)7.9-8.5と推定)。4年後には宝永大地震、宝永大地震の49日後、今度は富士山が大爆発します。新井白石も「折りたく柴の記」で「我初湯島に住みし比、元禄十六癸未の年十一月廿二日の夜半過る程に地おびたゞしく震ひ、…」と地震の体験談を記しています。)
それに対し白石は、重秀の言うことも理があるようにみえるが「金銀貨幣の改鋳がなければ、天地の災害も起こらなかったかもしれないじゃないかと言っています。」白石は、鉱物の金銀に対し神聖視するあまり、天災が続くのも貨幣改鋳の所為だと荒唐無稽の呪術的で独断に陥っています。この一事をとっても経済分野においては、重秀がはるかに格上であることが良くわかります。
荻原重秀:万治元年(1658)~正徳3年9月26日(1713,11,13)延宝2年(1674)17歳で、勘定方に召し出され、150俵取りの軽輩が、元禄8年(1695)38歳で勘定吟味役に任命さら貨幣改鋳の実施責任者なり、8年前の貞享4年(1684)に代官総検査により、当時の勘定頭(奉行)3人勘定吟味役1人を罷免に追い込み、元禄9年(1696)改鋳の功績により39歳で勘定奉行に昇進し、最終的には知行3700石に出世したのだから嫉妬されても仕方ないとしても、財政実務のたけ、きわめて有能で精勤な官吏であったようです。6代将軍家宣は、重秀を憎む白石に対し「才あるものは徳あらず。徳あるものは才あらず。真材誠に得がたし」となだめ、重秀を病没寸前まで重用し続け、解任の翌年、正徳3年(1713)9月26日に亡くなり、死因については白石の「折りたく柴の記」には病死とあります。
(ところが、白石に繋がるものにとっては、憎んでいて弟分の室鳩巣の弟子で金沢の青地斉賢(兼山)が著した「兼山秘策」には“万民其肉を食はんと欲申候、牖下(ゆうか)にて死候は大幸と奉存候”とあり、何故か青地斉賢(兼山)は死に際して弟礼幹(麗澤)に「兼山秘策」を焼くように言って死にますが、弟礼幹(霊澤)は自分の「麗澤秘策」を焼き、「兼山秘策」を残していて、牖下(ゆうか)とは、高いところの小窓のことで、転じて牢獄を意味するらしく、晩年は獄に繋がれ獄死したのではないか?と村井淳志氏の著書「勘定奉行荻原重秀の生涯」に書かれています。)
拙ブログ
藩政期の一両が1円になるまで・・・②
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12103346644.html
(5年程前に①~⑤までシリーズで書いたものです)
新井白石:明暦3年(1657)~享保10年(1725)貞享3年(1686)に入学金免除で朱子学者木下順庵に入門します。木下順庵も弟子というより客分として遇するほど目をかけたといわれています。当時、門下生には、雨森芳洲、室鳩巣、祇園南海など、後に高名な学者になる人が多く集り、白石にとって順庵への入門は大いに意義があったと思われます。
師木下順庵は白石の才能を見込んで、加賀藩への仕官を見つけてきます。白石も後年「加州は天下の書府」と賞賛しているように、加賀藩は前田綱紀公のもとで学問が盛んであったが、同門の岡島忠四郎に頼まれ、このポストを譲ったという。その後、師から元禄6年(1693)白石37歳の時、甲府藩主である甲府徳川家への仕官を推挙され、後に5代将軍綱吉は世継に恵まれず、宝永6年(1710)甲府徳川家の綱豊が諱を家宣と改め6代将軍となり、家宣は将軍に就任。家宣は白石や間部詮房を引き続き自身の側近として登用し、白石や詮房は将軍家宣期に、正徳の治と呼ばれる政治改革を行いました。
(白石の身分は500石取り(のち正徳元年に1000石に加増)の本丸寄合、すなわち無役の旗本なので、御用部屋に入るわけにはいかない。そこで家宣からの諮問を側用人間部が白石に回送し、それに答えるという形を取り、幕閣でも側用人でもない一介の旗本が、将軍侍講として幕政の運営にこれほどまでに関与した、これは白石をおいて他に例を見ないという。)
家宣が没すると、その子の7代将軍徳川家継の下でも引き続き、間部と共に政権を担当することになったが、幼君を守り立てての政局運営は困難を極め、幕閣や譜代大名の抵抗も徐々に激しくなり、家継が夭逝して8代将軍に徳川吉宗が就くと、白石は失脚、公的な政治活動から退いています。性格は、極めて神経質で何時も眉間に縦皺をよせ額に「火」の字に見え、ある人物を“悪”と決めつけたら、その人のすること成すことすべてが“悪”にしか見えないという偏執的な性格であったと伝えられています。
(つづく)
参考文献:「勘定奉行荻原重秀の生涯」村井淳志著 集英社新書 2007年3月発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)など