Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

貨幣は国家が造るもの・・・④金銀改鋳

$
0
0

【江戸・勘定奉行所】

元禄8年(1695)の徳川幕府金銀改鋳は、日本の幣制史上初めての大規模な貨幣改鋳だったという。そして勘定吟味役荻原重秀の生涯においてもハイライトとなる事件であったと作者村井敦志氏は書かれています。その頃、流通していた慶長金銀(慶長小判・慶長一分判・慶長丁銀・慶長豆板銀)を回収し、それらを鋳潰し金や銀の含有率や形を改訂した新たな貨幣(元禄小判・元禄一分判・元禄二朱判・元禄丁銀・元禄豆板銀)を鋳造したもので、それらを改めて市場に流通させる経済政策として行われました。

 

 

 

歴史的にみるとそれまでの貨幣改鋳は、増えた分の出目(益金)を得ることを目的に行われたもので、元禄の改鋳はそれだけではなく、当時の経済の発展から流通する貨幣が増え、当時の貨幣では、鉱物(貴金属)資源の枯渇もあり鉱物の量による実物貨幣(秤量貨幣)では、通貨の量を増やすことが出来なくなり元禄小判等の貨幣の改鋳が行われました。まさに純金含有量が違うものを同じ価値として扱う名目貨幣の考え方は、従来の貨幣観大きく転換させました。

 

 

 

元禄金銀:元禄887日(1695,9,14)、江戸時代最初の改鋳である「元禄の改鋳」の御触れが出され、同年910日(1696,10,17)から新金銀が通用開始されました。この頃、経済の発展に伴って貨幣の需要が増えたにも関わらず、江戸幕府直轄の鉱山からの金銀の産出量は激減し、また長崎貿易によって海外に金銀が流出したこともあって、幕府が貯蔵していた金銀を鋳潰しても貨幣の供給は追いつかなくなり、そのため市場の金銀の数量を増やすという名目の触書を出し、当時、勘定吟味役だった荻原重秀の主導で慶長金銀より質を落としたいわゆる元禄金銀が鋳造されます。しかし、その純度(品位)を下げたため一時的に物価は騰貴し、良質な慶長金銀退蔵により新旧貨幣の交換も滞り、多少通貨制度が混乱します。)

 

幕府の支出が増加し悪化した財政や予期せぬ大火や地震などの災害復興のための費用などを捻出するための元禄の改鋳で、金純度86慶長小判の金の含有率を56に減らし、純金の分量を3分の2に減らしたことで、慶長小判2枚分で改鋳後の純度(品位)を落とし3鋳造が出来、改鋳によって従来の貨幣量を約1.5に増やし、その増えた0.5倍分の小判が幕府の出目(益金)となりました。一方で、貿易で金銀大量流出したことによる貨幣不足や、貨幣経済の波及による貨幣需要増加へ対応させるため、また、米価を上昇させ武士の生活を安定させるためにも、貨幣量を増やしてインフレ政策を取る必要があったと思われます。

 

 

荻原重秀に真っ向から対立した新井白石は、持論の「物価が騰貴するのは、貨幣の質の低下ではなく、貨幣量の過多が原因」という説を展開し、また、新井白石は貨幣の質を落とすことによって利益を得る政策を、「陽(あらわ)にあたえて陰(ひそか)に奪う術」として激しく非難していますが、後に新井白石金銀の含有量が慶長金銀と同じ良質の貨幣に戻しますが、以後、幕府や藩の収入も減少し、経済が停滞しデフレに逆戻りします。)

 

現在では、荻原重秀貨幣量を増やす改鋳“通貨膨張政策”として評価されています。その貨幣不足を解消物価を安定させた元文期の改鋳も同様の評価を受けます。その貨幣改鋳とそれにともなうインフレは、当時の経済成長に欠かせない政策だったといえます。

 

 

 

しかし、当時のほとんどの文献では“荻原重秀の貨幣改鋳によって物価が騰貴したと書かれています。何故か!?改鋳の前後、何の値段が、どれくらい上がったのか調べると、当時の商品は農産物であり、物価と云っても最大の商品米”ですので、調べると改鋳以前には米価は上がり、改鋳後は下がっています。その江戸の米価は、改鋳前25年間の平均で10031,72両。改鋳後11年間の平均は41,45両。平均価格間比率は1,31倍。年率換算では2,7%上昇したに過ぎず、少なくとも元禄8年(1695)の改鋳は激しい物価騰貴を引き起こしたというのは、誤りであったことが分かります。

 

(現在のデフレ日本政府が目標としているインフレ率(消費者物価の上昇率)2ですからやや高いが、むしろ現在より健全だったと云えます。)

 

元禄貨幣改鋳物価が騰貴したという誤解の原因は、この年、梅雨が長引き深刻な冷夏で、翌年の米価の急騰。元禄9年(1696)の大阪の米価は当時として史上最高値で、多くの人々に強烈に記憶に残り、これが後世の人々に「貨幣改鋳=物価上昇」を強烈なイメージが刷り込まれたのではないかと云われています。

 

 

 

しかも、改鋳により庶民が苦しんだという様子がなく、改鋳により被害を受けたのは当時台頭し来た商人で、慶長金銀を大量に保有し、退蔵していた富裕層でした。手持ちの慶長金銀が、純度(品位)低い元禄金銀と強制的に等価交換されることを知り、慶長小判の退蔵量が多ければ多いほど、大損することになりました。

 

つまり貨幣の改鋳は、富裕層商業資本に対する新税であり貯蓄税と見なす事ができ、もっとも経済力をつけていた商業資本からといわずに富を収奪するという意味で、大変巧妙な政策でありました。当時、富裕な商人の中には、高利貸し(年利15%程)を営んでいるものが多く、金利で食っている人々を過剰貯蓄から「投資」に向ける効果も有ったと云はれています。

 

(第一次世界大戦後のイギリスの状況とよく似ていて、ケインズが「金利生活者の貨幣愛」で批判し、緩やかなインフレによって、金利生活者過剰貯蓄を「投資」に振り向くように仕向けたのと、同じ効果がありました。)

 

拙ブログ

藩政期の一両が1円になるまで・・・

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12103346644.html

5年程前にまでシリーズで書いたものです)

 

(つづく)

 

参考文献:「勘定奉行荻原重秀の生涯」村井淳志著 集英社新書 20073月発行・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」など

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles