【江戸・勘定奉行所】
元禄の改鋳は、今まで何回も書きましたが、元禄8年(1695)に幕府の財政赤字の解決策として荻原重秀の発案した貨幣改鋳で通貨供給量の拡大により積極財政策が好転します。そして約10年後、新井白石の再三にわたる改鋳停止が認められ、慶長金銀の元に戻す形で正徳4年(1714)に慶長小判の品位と同じ正徳小判が改鋳され、さらに享保元年(1716)に本格化し、同じ品位の享保小判が改鋳されますが、流通する貨幣の量が減少したため、元禄期のインフレがデフレ状況に戻り、その後に“享保の改革”の緊縮政策で長い不景気な時代が始まります。
(因みに宝永6年(1709)の5代将軍綱吉の代替わり時、幕府の収支は、幕府領400石からの年貢、長崎運上、酒運上を含めて幕府の歳入は76万3千両。そこから旗本らに支給する俸禄など30万両を引いて46万7千両ほど残り、前年、宝永5年(1708)の財政支出は140万両。宝永6年(1709)の京都御所造営、綱吉の葬儀費用、新将軍家宣の代替わり儀式費用のための、多額な経費が加わりますが、幕府の金蔵に37万両しかない状況で、当時の老中大久保忠増は、慌てふためき、どうしたら良いか勘定奉行荻原重秀に尋ねたという。当時、財政に関わっていたはずの老中でも幕府財政について大変な状況になっている事は知らなかったらしい・・・。)
(8代将軍徳川吉宗)
享保元年(1716)に徳川吉宗が8代将軍に就任すると、第6代将軍徳川家宣の代からの側用人であった間部詮房や儒学者新井白石を罷免しますが、正徳から続く貨幣改鋳はその金の品位を上げたので、通貨量が縮小し、また、徳川吉宗による殖産興業あるいは新田開発による米の増産も重なり、次第に物価(米価)が下落し、緊縮財政による不況に陥り、年貢米の換金効率の低下から武士層は困窮します。まさにデフレ状態に逆戻りします。
(新井白石)
現代的に云えば、給料の遅配、欠配の恐れさえあり、幕府は、財政再建を最大の課題として
”享保の改革”を断行します。以下、その柱となる政策は・・・、
➀徹底した倹約により財政支出を削減する緊急策。 ②財政収入を増やすため新田開発による耕地の拡大と、年貢徴収法を工夫して年貢収納を増やす策 |
江戸時代には、幕府や諸藩が財政危機に直面すると手っ取り早くかつ効果的な対策は倹約と人件費削減により支出を減らす緊急策で、寛政の改革、天保の改革でもまず倹約に取り組んでいます。これがデフレの原因で、緊縮財政策は、単純に云うと人件費削減がされるので、民は物が買えなくなる、従って売れない、売れなくなると又々給料が下がり悪循環が生じ、デフレスパイルに陥り民の貧困化が始まり、政治の肝心かなめの“世を治め、民を救う(経世済民)”の民が重税で苦しんでいます。それ故、当時の政治は”改革”ではなく”改悪”と云っても過言ではありません。
(日本では昔から“質素倹約”は美徳で、孔子は「贅沢は人を傲慢に、節約は人を安穏にする」と云っているように、儒教の精神が色濃く残っていて、幕府を含め武士は儒教嵌り、経済には全く理解していなく、商業や商人を詐欺という思いから課税することは「悪」とし、課税は農業頼りで、吉宗は百姓から最も税を絞り上げた将軍と云われています。)
その後、“享保の改革” は米価の引き上げ策を講じ、財政が困窮し武士および農民を救済しようと試みるますが思うような効果を挙げられず、そして“改悪”が名実共に“改革”に変わるのは、8代将軍吉宗就任から20年後、町奉行で官僚としても優れ才覚もある大岡忠相らの提案を受け入れ、元文の改鋳(元文元年(1736)を行い、金の品位を低下させ貨幣流通量を増加により、デフレが抑制されインフレに転換し景気と幕府の財政は回復します。特に幕府の財政は宝暦8年(1758)に最高の黒字額を記録し経済は成長します。
(詳しくは前回の「元文のインフレ参照」)
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12602469756.html
(田沼意次)
(歴史の教科書に、「享保の改革」と「寛政の改革」の間に「田沼政治」という項目がありますが、これこそ”改革”ではないかと、北國新聞掲載の井沢元彦氏が「お金」の日本史に書かれていますが、「田沼政治」と云うのは、明和6年(1769)に老中になる田沼意次は幕府の税制が農業だけに極端に依存していることに気づき、当時、意次は商品経済が発達している様を目の当たりにし、商人が金持ちになり、幕府が貧乏になっていくことを実感し、意次は商業を盛んにし、そこから税を取ることによって幕府の財政を”改革”しようとします。商品経済とはかんたんに云うと自給自足ではない経済のことで、お金を仲立ちにして、お互いに物と物とを積極的に交換しあって豊かになろうという考え方で、別に自分の暮らしには必要ではないけれどお金になるから作るのが「商品」で、儒教精神を国是とし、殿様が家来に土地(米)を与えることで上下の関係を保つ幕府はこんな考え方をしませんが、田沼意次は商品経済が盛んになれば、必ず財政改革に繋がると考えていました。)
(つづく)
参考文献:「勘定奉行荻原重秀の生涯」村井淳志著 集英社新書 2007年3月発行・「勘定奉行の江戸時代」藤田覚著 株式会社筑摩書房 2018年2月発行・北國新聞(夕刊)掲載の井沢元彦氏が「お金」の日本史(85)・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」など