【江戸・世界各国】
人類の歴史は物々交換の時代から物品貨幣(米、塩、絹、家畜)の社会へと移り変わり、紀元前7世紀頃には、金属の鋳造貨幣が登場します。それを実物貨幣(秤量貨幣)とか金属貨幣(金、銀、銅などの貴金属)と云います。しかし、金貨や銀貨は“物質そのものに価値”がありますが、貴金属資源は量に左右され実物貨幣が不足し、現在は経済を支えている貨幣の中心は名目貨幣(計数貨幣)です。素材は貴金属の実物貨幣と異なり、それ自身は商品価値をもたず、その素材価値とは無関係で、国家が強制的に価値をつけられた貨幣で、現存するものでは日銀発行の銀行券と財務省発行の政府紙幣、財務省発行の補助貨幣の硬貨を名目貨幣とか信用貨幣と呼ばれています。
(丁銀)
但し、江戸期の日本では金貨の実質的な価値は名目的な価値で、小判は改鋳により品位や重さが違っても額面価値は江戸期を通じて「一両」で統一されていたので、一般に金貨は「名目貨幣」で、銀貨(丁銀、豆板銀)は「実物貨幣」ですが、江戸中期より一分銀などは名目貨幣になっています。
(名目貨幣の銀貨)
(銀行券:日本銀行券を発行し、通貨として流通させています。日本銀行券には日本国内で法定通貨として無制限に通用する強制通用力が付与されています。政府紙幣:明治に発行された太政官札や西南戦争の戦費がかさんだので政府紙幣が大量に発行されています。また、第一次世界大戦後、日華事変勃発後、終戦後、と発行されています。近年、議論はされる事もありますが発行には至っていいません。硬貨:素材は銅合金(銅貨)が中心ですが、アルミニウムやメッキした鋼鉄などのものもあります。)
脱線1:蘊蓄(ウンチク)「金」!! 現在、地球上に有る「希少価値の金は、わずか23万トン!!」 金が発見されてから約6000年の間に採掘された金の総量は約17万トンといわれています。これはオリンピックの50mの公式プールに約3杯分。と云われています。国際調査機関「ワールド・ゴールド・カウンシル(WGC)」の調べによると、地球上に残る金の総量は残り約7万トン前後だそうです。これはプールに換算すると約1杯半。つまりあと1/3しか残されていません。更にこの7万トンは、地下数1000mの採掘困難な深い鉱脈や、活動中のマグマ、海水中に溶けている金を含めての量で、実際に採掘可能な金鉱脈から入手できる量はもっと少ない数字になります。現在、金は全世界で年間2500トン前後のペースで産出されているため、近い将来、人類の技術で採掘可能な天然の金鉱脈は枯渇してしまうそうです。 |
貨幣には、歴史的に用途によって特定の機能を持った貨幣もあり、複数の貨幣を組み合せたものでは、バビロニアでは価値尺度として“銀”を用いますが、支払い用の大麦、交換用の羊毛やナツメヤシなどが使い分けていたそうです。また、中国の漢では賜与や贈与の目的や立場に応じ、金、布帛、銅が厳密に使い分けられていたそうです。日本の江戸期では幕府が石高制のもとで米を価値の尺度として、金・銀・銅(銭)を三貨制度として統合していました。
(紙幣:最初の紙幣は中国の宋時代に金や銀の兌換紙幣として発達しますが、元になると乱発されたため、銀と交換できない不換紙幣となりました。名目貨幣である紙幣は運びやすく、原料とコストの面で発行が容易なためにインフレも発生しやすく、しばしば国家の弱体化に繋がりました。)
世界では、荻原重秀が名目貨幣を実行する前、ローマ帝国の東部属州で1世紀初頭から3世紀後期まで使われた貨幣制度で実物貨幣(秤量貨幣)と名目貨幣(計数紙幣)の両方が使われていたという。日本では、元禄の改鋳の後宝永5年(1708))閏10月に若年寄稲垣重富が発案し、京都銭座で鋳造した10文銭の大銭で宝永通宝が名目貨幣と云われていますが、寛永通宝(1文)の3倍の重さで3文の価値しかないに10文にさせようとしたもので「当十」と呼ばれていたが、宝永6年(1709)1月17日に、3ヶ月足らずで使用停止になります。以後、銀貨も銅貨も名目貨幣が現れ、両方が使われています。
(オーストリア・ウイーン、ウィキペディア(Wikipedia)より)
欧米では、ドイツ人学者クナップがその事に気付き、オーストリア政府で名目貨幣(計数貨幣)の不換紙幣を発行したのは、明治の2年前の慶応2年(1866)ですから、鉱物資源の金や銀が取れなくなったため瓢箪から駒のようですが、世界に先駆けて素材価値と額面価値を切り離して名目貨幣を実行にしたのは、日本人が最初だと言うことです。
脱線2:蘊蓄(ウンチク)「日本の貨幣略史」!! 7世紀末から8世紀にかけての日本は、唐の様々な制度を採り入れ、中央集権的な律令国家を目指しました。和銅元年(708)、今の秩父辺りで初めて和銅(自然銅)が産出されたことから、元号を和銅に改めるとともに始めた貨幣の鋳造もそのひとつで、推古天皇29年(621)に中国で作られた「開元通宝」に倣った「和同開珎(銀銭と銅銭)」で、これは日本最古の貨幣だそうです。
「和同開珎」以後、朝廷は250年の間に12種類の貨幣を作りますが、物品貨幣の生活に慣れていた人々には金属貨幣は馴染めず。また、銅不足から貨幣の質が落ちたことも手伝って、天徳2年(958)発行の「乾元大宝」を最後に、新たな銭貨は発行されていません。その後はしばらく、米や絹などの物品貨幣が用いられていましたが、12世紀半頃、中国からの宋銭・明銭が大量に輸入し、国内でも使われるようになります。銭貨は人々の間で浸透し、商品経済も発達。中でも明(1368~1644)が元を倒し、明王朝の質の良い「永楽通宝」が、16世紀後半頃から各種流通貨幣の価値を計る基準となっていますが、室町時代になると、渡来銭だけでは貨幣が不足したため、公許を得ずに民間で鋳造された銭貨(私鋳銭)が大量に作られるようになり、銭貨の流通は混乱します。
16世紀以降、戦国時代には合戦に費用が掛かり多くのお金が必要になると、戦国大名たちは鉱山開発に力を入れます。永禄10年(1567)に武田信玄が、日本初の金貨「甲州金」を鋳造し、織田信長は金・銀・銭貨の比価を定めるなど、独自の金銀貨を鋳造するようになります。さらに豊臣秀吉はこれまでの金判を統一し、重さ165gという世界最大の金貨「天正大判」を製造します。これらの多くは恩賜・贈答用で、高額なために大名や公家達の間でしか使われず、一般人はその間も渡来銭を使用しています。
秀吉の後を継いで天下人となり、幕府を開いた徳川家康は金銀山の支配を進め、貨幣制度の統一を図り。慶長6年(1601)に「慶長金銀貨」を発行。貨幣製造・体制の整備などを行います。寛永13年(1636)、三代将軍・家光の時代には、長年鋳造されなかった銅貨(銭貨)「寛永通宝」が作られ、さらに寛文10(1670)幕府は渡来銭の通用を禁止。これにより、金貨・銀貨・銭貨による日本独自の貨幣体系「三貨制度」が成立します。金貨には「両」「分」「朱」の種類があり、4進法がとられていました。銀貨には「丁銀」「豆板銀」が用いられ、これらを秤量貨幣と云います。
元禄13年(1700)頃の三貨制度 ・金貨(計数貨幣):1両=4分=16朱。(1両=銀60匁=銭(銅)4000文) ・銀貨(秤量貨幣):1匁=10分、1000匁=1貫(貫目、貫匁) 秤量貨幣の単位「匁(もんめ)」は、重量の単位そのもの(1匁=約3.75g) ・銭貨(計数貨幣):1000文=1貫文
一方で、参勤交替などの出費により、各地の大名は財政が苦しくなったため、幕府の許可を受けて藩内限りに通用する「紙幣藩札」を発行しています。 |
つづく
参考文献:「勘定奉行荻原重秀の生涯」村井淳志著 集英社新書 2007年3月発行・「勘定奉行の江戸時代」藤田覚著 株式会社筑摩書房 2018年2月発行・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」など