【日本・高橋是清・軍部】
昭和恐慌は、昭和4年(1929)10月にアメリカで起こり世界中を巻き込んだ世界恐慌の影響で、翌昭和5年(1930)から昭和6年(1931)にかけて日本経済は最も深刻な状況から恐慌に陥ります。第一次世界大戦による戦時バブル(大戦景気)の崩壊によって、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化。一時は収束したものの、その後、金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥ります。
(昭和5年(1930)からの昭和恐慌は、昭和2年(1927)の“昭和金融恐慌”とは、別モノです。)
昭和6年(1931)12月、昭和恐慌の最中に大蔵大臣に就任した高橋是清は、景気回復策として軍備を含めた積極的な公共投資を行います。この政策が功を奏し景気が上向きになると、以後は財政の悪化を防ぐため軍事費の抑制を図ります。しかし、これは軍部の反発を招き、昭和11年(1936)高橋是清は“2・26事件”により非業の死を遂げます。
(日本では、明治30年(1897)に金本位制を導入し、昭和6年(1931)12月に金本位制から離脱します。それに伴い、紙幣に記載されていた「金貨引換文言」が消され、「日本銀行兌換券」は「日本銀行券」となりました。)
(難を逃れた岡田啓介首相)
≪2・26事件≫
昭和11年(1936)2月26日、陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターを断行します。それが“2・26事件”です。このとき青年将校約20名に引率された1500余名の部隊が、首相官邸などを襲撃します。蔵相高橋是清、内大臣斎藤実、陸軍教育総監渡辺錠太郎らが殺害され、侍従長鈴木貫太郎は重傷を負います。岡田首相と間違えられた首相の義弟が殺されましたが、首相は難を逃れました。反乱部隊は事件発生から4日間、首相官邸、国会議事堂など永田町一帯を占拠しました。事件後に開かれた軍法会議では、「非公開、弁護士なし、一審のみ」で、刑が確定し、主謀者の青年将校ら19名(20~30代)を中心に死刑となり、刑はすぐに執行されました。
(5・15事件で暗殺された犬養毅首相)
高橋是清は、世界大恐慌・昭和金融恐慌の後、犬養毅・斎藤実・岡田啓介各内閣の蔵相を務めます。恐慌後の景気回復策として軍備をふくめて積極的に公共投資を行い、需要拡大、生産の増加をめざしました。この政策がうまくゆき景気が上向きになってから、財政の悪化を避けるため軍事費拡大の抑制をすすめていましたが、“2・26事件”により高橋は命を落とします。一方、“2・26事件”後に誕生した広田弘毅内閣は、高橋財政路線を捨て、陸軍の要求を受け入れ再び軍事費拡大の方向に進んでゆくことになります。
(蔵相高橋是清は当時82歳。一時、政界を引退していましたが、世界大恐慌・昭和金融恐慌発生後、内閣の要請を受け、再び蔵相の職に就いていました。)
(高橋是清)
2・26事件とその背景は・・・
事件の起こる6年前、金輸出解禁と世界大恐慌により、日本は深刻な不景気になり、企業は次々と倒産し、町は失業者であふれ、さらに農村でも農作物価格が下落し、都市の失業者が農山村に戻ったこともあり、農民の生活は苦しく、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出たそうです。しかし、当時の政党内閣は適切な対応をとらず、また汚職事件が続発し、不景気のなか、巨大な資本を用いて財閥だけが儲かるという状況が生まれます。このため、人々は政党に失望し、財閥を憎み、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部、特に陸軍に期待するようになります。こうした国民の支持を背景に、軍部や陸軍に所属する青年将校たちが力をもち、右翼と協力して国家の革新を目指すようになります。
(この時期、過激な計画や事件が続発していきます。昭和7年(1932)5月15日に日本で起きた5・15事件は、武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した事件です。この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、この事件は血盟団事件につづく昭和維新の第2弾として決行され、古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめ、右翼の大川周明らから資金と拳銃を引き出し、農本主義者の橘孝三郎が主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織し、11名の陸軍士官候補生を引き込み、一人一殺を標榜して財界人を殺害する右翼の血盟団などです。ちなみに、当時の陸軍には陸軍の中枢の高官が中心になった派閥「統制派」と天皇親政を目指し、そのためには武力行使などを辞さない一派「皇道派」という2つの派閥があり、彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうと考えます。両派の対立は、「統制派」が勝利します。ところが昭和10年(1935)「皇道派」を締め出した「統制派」のリーダーである永田鉄山軍務局長を「皇道派」の相沢三郎中佐が斬殺する事件などで、「皇道派」は大いに力を得て翌年2・26事件が決行されます。青年将校は天皇を中心とした新しい政治体制を築く“昭和維新”を掲げ、国内の状況を改善し、政治家と財閥の癒着の解消や不況の打破などを主張します。事件後、時の陸軍大臣も、「おまえたちの気持ちはよくわかる」といった訓示を出すなど、事件を起こした青年将校の要求に沿うように見えたが、「皇道派」が最も崇敬していた昭和天皇は、彼らを「賊徒」(政府に対する反逆者)と見なし、自分の重臣たちを殺されたことに、天皇は激怒し、自ら早急な鎮圧を陸軍大臣に指示します。天皇が自ら軍に指示したことは極めて異例なことですが、同士討ちを避けたい陸軍は躊躇すると、天皇は、「私が自ら軍を率いて平定する」とまで明言したといいます。)
◆14) 東洋経済新報第1695号 昭和11年2月29日第1696号 昭和11年3月7日
表紙画像(第1696号)【Z3-38】
14-1) 事件後の經濟界(二月二十七日記) 不安發生の憂なし、國民は大信念を以て善處せよ(東洋経済新報 第1695号 昭和11年2月29日 p.3-4)
事件発生を受けて急遽付録としてつけられた記事。金融、物価、信用、為替、公債、株式市場、商品市場などそれぞれに「不安無し」などの見解をつけて論じ、読者の冷静な判断を求めた。
14-2) 不�事件と言論機關の任務 −建設的批判に精進すべし−(社説)
(東洋経済新報 第1696号 昭和11年3月7日 p.5-6)
政府のみでなく国民全体が事件に共同責任を負うべきだと前置きした上で、とくに言論機関はその任務を果たしていないと厳しく批判している。
14-3) テロリズムは燃燒せず −英雄主義の逆理と危險性−(社説)
(東洋経済新報 第1696号 昭和11年3月7日 p.8)
事件には触れていないが、社会の否定および英雄主義が、破壊的行動主義と結びつく危険性を論じている。階級間にしても国の間にしてもブロック間にしても、この時代の行動の基調が憎悪にあるとして現状を憂い、愛と協調をもたらすために国民生活安定の実現が最も肝要な政策であると説いた。
14-4) 重大事局と財界の前途 (東洋経済新報 第1696号 昭和11年3月7日 p.9-19)
事件直後の経済界の動向を概観した前号の付録(14-1)の詳細を補う特集。
「事件の性質は経済的にどう解釈すべきか」の項では、軍部の軍事費獲得要求は、大変革を覚悟せねばならず国民生活の安定は得られないとして、「だから、今日景気を壓迫するような政策を、軍部から要求すると云うことは先ず絶対にない筈である。それどころか、新内閣に対する軍部の態度は、公債の大�発を行つて軍事費の�加に應ずると共に、他方大いに匡救的事業を起すべしと云う論で支配されて居るとさへ言はれる。記者は財政上にもさような急激な変化をもたらすことは賛成し難いし、また実際に行はれもしまいと考へる。だが斯うした希望のあると云う事実は、けだし軍部の要求が何れに向かって居るかを最もよく示すものと解釈して宜い」と述べられている。
◆15) ダイヤモンド 第24巻第7号 昭和11年3月1日
15-2) 騒擾事件と景氣動向 −その衝惧は大きいが狼狽は無用−(財界指標)
(ダイヤモンド 第24巻第7号 昭和11年3月1日 p.14-20)
「事件後は人氣脅へて財界沈衰するが、暫らくして此の修正がある。所謂強力財政策が行はれ、其の影響が現れるにしても、それは此の後ぢりぢりと緩徐に來ることであり、此の際狼狽は禁物である」と伝えている。財政策は「高橋財政の原則が踏襲されるより外ないと思う」としていた。
◆16) 国際経済週報第17巻第10号 昭和11年3月5日第17巻第11号 昭和11年3月12日【YA-946】
16-1) 不祥事件と財經政策の積極化(時評)
(国際経済週報 第17巻第10号 1936年3月5日 p.5)
事件によって財界はショックを受けつつも、「この程度で一応の鎭定がみられるとすれば、その打撃は勿論致命的でも混乱的でもあり得まい」とし、「後継内閣の顔觸がどうでもあれ、新内閣が財政、経済政策の積極化を回避することは絶対に出來ないといへよう」と積極策を予測する。悪性インフレの恐れについても、国策による国家統制が機能する、破綻が急襲することはありえない、と報じている。
16-2) 叛亂事件の鎭壓と財界(内外展望)
(国際経済週報 第17巻第10号 1936年3月5日 p.6)
国民は事件勃発に際しよってきたる原因を深省する必要にせまられている、問題を解決するためにも、財界の今後のためにも、「後継内閣が眞に挙国一致のもので国民の総意よく引き受けるもの」であることを説く。等々
(つづく)
参考文献:・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」など
引用:第142回常設展示「経済誌から見た戦前 --関東大震災 ・ 昭和恐慌 ・ 二・二六事件」2008・11 国立国会図書館「リサーチ・ナビ」PCより