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貨幣は国家が造るもの・・・⑫ウラ刷り無しのニセ?200円札を発行した高橋是清!!

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【日本政府・高橋是清】

高橋是清は、昭和2年(1927「昭和金融恐慌」と呼ばれた経済危機を、たったの44日間で切り抜けた「日本経済を救った偉人」としてよく知られています。戦後、その功績が認められ、昭和26年(1951)には50円札に眼鏡を掛けた肖像が選ばれます。

 

お札の肖像の選定は 1、日本国民が世界に誇れる人物で、教科書に載っているなど、一般的によく知られていること。2、偽造防止の目的から、なるべく精密な人物像写真絵画を入手できる人物であること。)

 

(50円札・メガネの高橋是清)

                                                  

「昭和金融恐慌は、日本で昭和2年(19273から発生した経済恐慌で、日本経済第一次世界大戦時の好況(大戦景気)から一転して大正9年(1920に戦後不況に陥って企業や銀行は不良債権を抱えます。大正12年(1923)に発生した関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していました。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていました。

 

(関東大震災・Wikipedia)

 

昭和金融恐慌は、特に断らない場合はこの昭和2年(1927)の恐慌を指すもので、昭和5年(1930からの昭和恐慌とは違うモノです。)

 

(昭和金融恐慌・Wikipedia)

 

昭和2年(1927)3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました。」と失言したことをきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生します。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃します。もちろんこれは失言ですが、長引く不況から疑心暗鬼になっていた市民「誤報でした」にも耳を貸さず「自分の預金は危ない!!」と大勢の人々が銀行に駆け付け、全国的な取り付け騒ぎが起きてしまいます。

 

(片岡直温)

 

この事態を受けて、当時の若槻内閣は総辞職し、高橋是清は、あとを次ぐ田中義一総理の依頼で、大蔵大臣として騒動の沈静化に尽力します。この時、すでに73歳の高齢に加え病後の衰弱も激しく、とても激務に耐えられる状態ではなかったが、「こんな状態を見過ごせない」と、火中の栗を拾うべく立ち上がりました。

 

高橋是清がおこなったモラトリアム政策は、すべての銀行を、2日間休業させ、3週間の支払いに猶予期間をもうけます。つまり「銀行からお金をおろせない作戦」で、419日の就任からわずか3で、これだけ大胆な策をやってのけ、さらに3日後の425、休業開けの銀行窓口には札束が積み上げ、市民の目に触れることにより「お金はいっぱいある=銀行は大丈夫」と安心させ、これが功を奏し、しだいに取り付け騒ぎも沈静化します。

 

(札束は片面印刷の200円券臨時に増刷して現金で、銀行もこれを店頭に積み上げ、奇策!?僅か44日間で“昭和の金融恐慌”と呼ばれる経済危機を処理し金融不安を切り抜けます。)

 

高橋是清“波乱万丈の人生”

嘉永7年閏727日生〜昭和11226日没1854919日〜1936226日)

幕府の御用絵師の庶子として生まれ仙台藩士の養子になり、アメリカ留学時代はホームステイ先の家族にだまされ、農場に売られ奴隷のような扱いを受けます。帰国後は、大学予備門英語教師や開成学校の初代校長。その後、農商務省の官吏となって特許局長にまで昇進しますが、進取の気性に富む彼はその職を辞して南米に渡り、ペルーで銀山開発に取り組みます。しかしこれが大失敗、無一文で帰国します。その時に、当時日本銀行総裁(第3代)であった川田小一郎に声をかけられ、建築中であった日本銀行本館の「建築事務主任」として明治25年(1892)日本銀行に入行します。

 

明治32年(1899)日本銀行副総裁。日露戦争の外債募集に手腕を発揮し、横浜正金銀行頭取などを経て明治44年(1911日本銀行総裁に就任。第1次山本、原各内閣蔵相、立憲政友会総裁を歴任し、大正10(1921)首相となります。第二次護憲運動に参加し、加藤()内閣の農商務相、田中()、犬養、斎藤、岡田各内閣の蔵相を歴任。高橋財政と呼ばれる積極的な財政政策が特徴で、高橋モラトリアム政策、低金利政策、財政支出の増大などの政策を矢継ぎ早に実行し、日本の経済と財政を安定させることに成功します。

 

しかし、増えすぎた軍事予算を削減”をしようとしたことから、軍部の恨みを買い、2月26日、赤坂の自宅で陸軍青年将校によって射殺されます。享年82歳。その後半の人生は、総理大臣(大蔵大臣との兼任)1回、大蔵大臣7を務めるなどの大活躍。その波乱の生涯を閉じました。

 

 

≪高橋是清の名言

経済は生きもの常に移り変わっているから、経済対策もその時の状況に合わせたものを」

1+1=2、2+2=4と思っている秀才には生きた財政はわからない」など。

 

(つづく)

 

参考文献:「お金の話あれこれ」編集・発行 日本銀行情報サービス局・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」など

 


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