【日本・アメリカ】
幕末、日米修好通商条約が 安政5年(1858)に 締結され、その条約の中の、貨幣の交換条文に、貨幣の交換は「同種同量」による交換の条文であり、日本貨幣(名目貨幣)と海外貨幣(秤量貨幣)の交換比率に関する問題が生じます。アメリカの下田総領事ハリスに丸め込まれ1弗=一分銀3枚とすることを幕府に強引に認めさせます。また、日本は諸外国との金銀交換比率が異なったため、日本から大量の金が流出し、しかも、関税の自主権の放棄で日本にとっての不平等条約でした。
(万延小判と安政小判及びメキシコドルと一分銀の関係図)
幕府は、日米修好通商条約の締結を渋っていると、ハリスは、当時英国による中国侵略のアヘン戦争を例に出して、「英仏は、日本国を侵略しようとしている。アメリカと条約を結べば、それを防ぐことが出来る。」と脅しをかけたといわれています。
(ハリス)
(ハリスのあくまで秤量貨幣にこだわり(ハリスの策略か?)一分銀3枚が、1弗に交換相当とする考えは、当時、1弗はメキシコ銀(約23g)で造られ、一分銀に含まれていた銀の量は約8gでした。当時の欧米に金銀比率は金1: 銀15.3。日本の金銀比率は金1: 銀4.6程度で、欧米の銀は安く、日本で銀が高かったそうです。)
(安政小判)
そこで幕府は、改鋳したばかりの安政小判を、急場しのぎで1弗に合わせた形で新しい一両小判を安政小判と同じ品位ですが重さ約3分の1で再度改鋳したのが“万延小判”です。重さ3,3g(今の5円玉(3,75g)より軽い)と小さいので別名「姫小判」とか「雛小判」と言われます。
万延小判の発行にあたり、銀の量を増やした新しい一分銀を発行し、幕府が主張していた1弗銀貨1枚と同量23gの一分銀を作れば良かったのですが、それだけの量の銀が日本にないことから、幕府は結局ハリスの「小判の重さを減らして、調整しましょう。」という提案にのり、小さな万延小判が生まれることになったといいます。
(桜田門)
当時の幕府大老井伊直弼は、日米修好通商条約の締結には天皇の勅許が必要であると考えいました。勅許の無い条約締結には消極的でしたが、交渉の全権委任を受けた幕臣の中でトップクラスの交渉センスを持つ官僚岩瀬忠震、井上清直が、全権委任されたことを受け、天皇の勅許なしでハリスと条約を結びます。岩瀬等は後にハリスから「このような全権委員(岩瀬と井上清直)を持った日本は幸福である。彼らは日本にとって恩人である」と云われていますが、尊王攘夷派や薩摩藩、長州藩、その流れを汲む明治新政府も、「不平等条約を、勅許なしで取った弱腰幕府! 異人の言いなりになった幕府! 無能な幕府のせいで、不平等条約改正にどれだけ苦労したと思うのだ!」と幕府の行動を責め立てています。
(明治維新後、ハリスの暴挙で大量の金が国外へ流出し、さらに戊辰戦争による戦費や、殖産興業のために新政府は深刻な財政不足に陥ります。それでも大量の予算を充足することから、会計事務掛に福井藩で実績のある三岡八郎(福井藩士のち由利公正)を導入し、不換紙幣太政官札(10両、5両、1両、1分、1朱の5種)が大量に発行しますが、政府貨幣の信用が著しく低下します。その価値は価100両に対し、太政官札120両から150両まで下落し、三岡八郎(由利公正)は失脚します。)
≪万延小判(厳密には万延二分判2枚)の一両が明治の1円で1ドル≫
万延小判の一両は、安政小判と素材の品位は同じですが、重さは3,3gで、約37%、天保小判の約30%です。しかし当時流通したのは万延小判(金一両)より品位の低い万延二分判で、文久、元治、慶応年間を通し本位貨幣の万延小判の新鋳額64万両に対し5,320万両という膨大な額が発行され幕府に出目益をもたらしたと言われています。
(万延二分判)
明治3年12月29日(1871年2月18日)アメリカ合衆国に出張中の大蔵少輔兼民部少輔伊藤博文は「現在、世界の大勢は金本位制に向かいつつあり」と大蔵卿に対し建言します。そして金本位制の採用を決定。明治4年5月10日(1871年6月27日)に太政官より布告された「新貨条例」の概要に以下の条文があります。
・貨幣の基準単位を「両」から「圓(円)」に切り替え(旧1両を新1円)とする。
・1円金貨の含有金を純金23.15ゲレイン=1.5gとする(1アメリカドルに相当する)。
(万延二分判2枚の一両が新1円になります。)
(したがって、安政小判以前の一両は、万延二分判2枚の一両の約3,3倍以上にあたります。今、当時の1円が約3万円だとすれば、安政以前文化文政までの金一両は9,9万円、よく聞く文化文政の一両は10万円と言われているのも満更出鱈目でもなさそうです。)
≪明治政府の交換レートの例≫
安政小判(一両) 金5,11g銀3,86g(9,0g) 明治政府の交換レート3,5円 |
万延小判(一両) 金1,89g銀1,41g(3,3g) 明治政府の交換レート1,3円 |
万延二分判(2枚1両) 金1,37g銀4,63g(3,0g) 明治政府の交換レート1,0円 |
明治二分判は1,34g銀4,66gと品位は万延二分判よりやや落ちますが交換レートは1,0円と同じで、交換レートが万延二分判2枚の一両と同じく明治の1円、米弗1ドルになります。
(明治30年(1897)になると、明治政府は、金のみの本位貨幣(通貨価値の基準)とする貨幣法を公布し、金本位制が確立します。また、1円を金0.75gと定められたことで1ドルが2円になりました。)
(つづく)
参考文献:「大君の通貨―幕末「円ドル」戦争」昭和59年(1984)4月・(株)講談社発行・「勘定奉行荻原重秀の生涯」村井淳志著・平成19年(2007)3月・(株)集英社発行・「両から円へ」山本有造著・平成6年(1994)2月・ミネルバ書房発行など