【江戸・勘定奉行所】
初めに江戸幕府の三貨制度の復習です。幕府は金・銀・銭(銅貨)の三貨の鋳造を命じ、全国通用の正貨とします。慶長時代には幣制で金貨・銀貨が作られ、明銭の永楽通宝の流通が禁止され、鋳貨の発行は、それぞれ金座、銀座、銭座と呼ばれる業者が担当し、金貨は額面価値と枚数で価値を決める名目貨幣(計数貨幣)でした。銀貨は18世紀半ばまで含有率と重量で価値を決める実物貨幣(秤量貨幣)で、当時、幕府による貨幣発行は増加を続け、地方の経済が活発になり、幕府は金貨と銭貨を中心に供給しますが、当時、老中の田沼意次が、明和2年(1765)に勘定吟味役川井久敬が重さを量って使うこれまでの丁銀・豆板銀を、重さ5匁に固定した「五匁銀」を献策し、また、銀相場に煩わされず、銭の代わりになると説明し、金遣いを好む江戸でも通用しやすい銀貨だと提案しまします。文政年間に入ると、銀貨
を金貨の単位である分・朱を通貨単位とし計数貨幣の銀貨(1分銀)を発行し、実物貨幣(秤量貨幣)銀貨の流通はかなり少なくなります。
(丁銀・豆板銀)
(金貨の単位は両、分(ぶ)、朱(しゅ)。1両=4分(ぶ)、1分=4朱の4進法。銀貨の単位は貫(かん)、匁(もんめ)、分(ふん)で、1貫=1000匁、1匁=10分。銅貨の単位には文で、1貫文=1000文。金・銀・銅はそれぞれ独自の体系を持ち、交換用の基準を決められてはいたが、実際には金・銀・銅の相場は変動して、今の為替相場のようで、両替商が重要な役目をはたしていました。)
(三貨図)
今回は銀貨が名目貨幣(1分銀)になるまでのプロセスを調べることにします。銀貨は、江戸時代を通し銀の延べ棒状の重量で価値が決まる丁銀が主体で、ほかに大小さまざまな豆板銀があり、銀貨を発行する銀座は、幕府に許可された銀座人が発行と経営、吹所の大黒常是が鋳造と刻印を担当します。幕府が発行した慶長丁銀は銀含有率が80%。当時の東アジアの貿易用銀としては水準が低かった。幕府老中の田沼意次は初ての計数銀貨として明和五匁銀を発行します。しかし商人の反発によって発行が停止され、小判兌換の南鐐二朱銀に代えて発行されて銀の名目貨幣が徐々に定着します。以降、名目貨幣(計数貨幣)の銀貨と実物貨幣(秤量貨幣)の銀貨が併用され、南鐐二朱銀は合計39年間にわたって発行され、文政年間に入ると、金貨の単位である分・朱を通貨単位とする計数銀貨(1分銀ほか)の流通高が実物貨幣(秤量貨幣)を上回ります。
(五匁銀)
勘定奉行川井久敬と「明和五匁銀」
老中田沼意次が目をつけたのは、小普請組頭だった川井久敬は、明和2年(1765)勘定吟味役に登用され、金遣いを好む江戸でも通用しやすい重さを5匁に固定した「明和五匁銀」の銀貨を提案します。「明和五匁銀」12枚を金1両に固定することで、銀相場に煩わされず、また銭の代わりとなると説明しました。20年間で8,3万両発行する計画でしたが、これは当時の貨幣流通量の0,25%に過ぎず、川井自身も試作品として位置づけていたようです。しかも、銀相場が金1両=銀63~64匁に下落したことや、相場と両替で利益をあげる商人たちの抵抗で、広く流通されることはありませんでした。しかも、重くて「下駄」と揶揄され、結局7年間3万両の発行で中止になりました。
その後、田沼意次が「南鐐二朱銀 」という額面が決められた計数貨幣を発行します。江戸時代の通貨のうち、関西で主に使われていた銀貨は、額面が固定されている金貨との交換が不便だった通貨を流通が円滑にするため発行されたものが、計数貨幣である「南鐐二朱銀」で、商業を重んじた田沼意次ならではの政策でした。
(南鐐二朱銀)
(川井久敬:享保10年(1725)生まれ。幕臣。小普請組頭,勘定吟味役をへて明和8年勘定奉行。明和五匁銀や南鐐二朱銀の鋳造や銭貨でも明和6年(1769)それまで1文銭のみだった寛永通宝に4文銭を献策。4文銭は1文銭よりやや大型で、背面に川井家の家紋である波を描きウコン色に輝くこの銭貨は波銭とも呼ばれ、量目は1匁4分(5.2グラム)、規定品位は真鍮質(銅68%、亜鉛24%、鉛など8%)で発行するなど田沼意次の貨幣政策の実現に尽力した。安永4年(1775)田安家家老を兼任。安永4年(1775)10月26日死去。51歳。)
(4文銭)
拙ブログ(田沼意次)
貨幣は国家が造るもの・・・⑦改革と改悪
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12603409593.html
田沼意次のもう一寸詳しく、そして寛政の改革のさわり!!
意次の父は紀州藩の足軽で、家柄としてはかなり低いほうですが、その頃、部屋住みだった徳川吉宗に仕えていたことが幸いし、吉宗の8代将軍就任に伴って幕府旗本になりました。意次もその跡をつぎ、9代将軍家重・10代将軍家治 に重用されて、出世街道を驀進、明和4年(1767)ついに家治の側用人 となり、安永元年(1772)には老中に上り詰めます。
「米作りで稼ごうなんて時代遅れや。これからはカネがなければだめ。銭やゼニや!」と言ったかどうか分かりませんが、田沼の考え方は封建社会の保守的な思考からはかなり離れていて、むしろ現在の経済感覚に近いもので、最近では田沼時代をもっと評価していいのではないかという意見も多く出るようになっています。
(田沼意次)
意次は株仲間を公認し、専売制を拡張し、商人を儲けさせる代わりに運上金・冥加金など
間接税の徴収に力を入れ、また、下総の印旛沼や手賀沼の干拓をして、田んぼを造り、年貢収入を増やそうと考え、干拓の費用は商人に出資させています。北方地域の開発によりコンブ・干しナマコ・干しアワビ・フカのヒレなどが俵物として長崎から輸出されます。
意次はまた、当時、米がとれない蝦夷地を開発してロシア貿易を盛んにしようとも考え、意次の計画は当時としてはとても斬新ではあったが、一部の商人以外からは、ほとんど批判的な眼で見られていたといいます。とくに幕閣などからは、「田沼のやつ、低い身分からノシ上がって上様(将軍家治)に気に入られていることをいいことに、やりたい放題や!」と思われていたので、意次は将軍家治が亡くなるとアッという間に失脚し、その計画も多くは中途で頓挫してしまったという。
しかし、江戸初期から日本の貿易は、輸出品なしの輸入品だけと言う赤字貿易でしたが、意次の時代になって黒字貿易に転換します。そして俵物の他に新たに開発された金銀銅などの鉱産物があり、安永5年(1776)に刊行された経済学者のアダム・スミス著「国富論」には、日本から輸出された大量の銅が、ヨーロッパの銅取引市場に脅威を与えていたと書かれているらしい。このような徳川吉宗と田沼意次の適地適産政策に基づいて推進された経済と産業の努力の積み重ねがあり、意次の時代は日本全国がゆとりある時代だといわれています。人々の生活に余裕が生じ、物の消費量が増大しインフレになるのは当然です。
(8代将軍吉宗)
それで困ったのは、農民でした。当時、商人をばかり優遇したので物価ばかり上がって、
金は回りましたが、現在とは違い働く者の大多数が農民なので物価上がるのは死活問題となり、それが元で追い込まれます。
10代将軍家治に変わって11代将軍となると徳川家斉の庇護のもと、8代将軍徳川吉宗の孫松平定信が権勢を振るう「寛政の改革」の時代になり、松平定信は、意次に「悪人」「賄賂政治家」のレッテルを貼り、その悪評が現在まで定着します。
(老中松平定信)
ところで松平定信の「寛政の改革」は、背景には浅間山噴火や天明の飢饉など災害や凶作が続き幕府は深刻な危機を抑えて内外の危機を打開する必要に迫られたとは云え、お金を使わない「緊縮財政」、庶民にも使わせない「倹約」という徹底した方針でしたが、意次と定信を指し、積極財政VS緊縮財政などと言われがちですが、実際のところは定信の緊縮政策は意次末期の緊縮政策を追認、深化した田沼政治からの連続性と云う説もあります。
しかし、松平定信は朱子学好きで「朱子学を信奉しない者は文化を持たない」というくらい狂信的だったと云います。朱子学では農業を重視し商業を軽蔑する傾向があり、将軍の孫よろしく「皆のものよ、金儲けなどにうつつを抜かさず、分をわきまえて真面目に働くのじゃ。ムダ使いはダメ。倹約、倹約!」と、改革を推し進めます。
そのため、ぜいたく好きな将軍家斉 からは疎まれ、庶民からも「松平様は厳しすぎる。景気も悪くなったし昔の田沼時代が恋しい・・・」と云われ、どどの詰まりは"大奥の経費を3分の1に切り詰めたことで、反発を受け"それが失脚の原因となり老中をやめさせられます。
(つづく)
参考文献:「勘定奉行荻原重秀の生涯」村井淳志著 集英社新書 2007年3月発行・「勘定奉行の江戸時代」藤田覚著 株式会社筑摩書房 2018年2月発行・北國新聞(夕刊)掲載の井沢元彦氏が「お金」の日本史・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」など