【玉泉院丸→金谷出丸(現尾山神社)】
鼠多門と鼠多門橋は、明治17年(1484)に焼失し136年を経て、今月18日に甦ります。平成26年(2014)から平成27年(1015)にかけて復元に向け発掘調査や絵図、文献等の調査を行い、史実に沿った復元工事が平成28年(2018)6月に着工、2年の歳月を掛けて令和2年(2020)7月18日に開門、渡り初めの運びとなりました。
(完成まじかの鼠多門と鼠多門橋)
(当初、目指した東京オリンピック前の完成も、南町に整備された金沢中央観光案内所のオープンと合わせた計画で、長町武家屋敷跡、尾山神社から鼠多門橋を渡り、金沢城、兼六園、本多の森公園と新たに開館する国立工芸館を結ぶ「加賀百万石回遊ルート」も、新型コロナウイルス感染症の影響でオリンピックが延期になり、集客装置やソフトは準備万端、計画通リ整いましたが、お客様をお迎え出来ず、今は、感染予防の観光自粛が全面解除予定の8月1日を待つばかりです。)
(工事中の鼠多門)
(工事中の見学会案内パンフレットと報告書)
≪金澤古蹟志の鼠多門と鼠多門橋≫
この門は、玉泉院丸より金谷出丸へ通行の門で、古文書(金城深秘録)に書かれ、玉泉院丸御門・御土蔵は、利常公が隠居後、石垣を積み、地面を掘った空間に鼠が土の中から出たので鼠多門と名付けられ、御土蔵の壁の色も鼠色にと云われ、長屋を多門と云うのは両様兼るという口実か。
原文:此の楼門は、玉泉院丸より金谷出丸へ通行の門也。に云ふ。玉泉院丸御門・御土蔵は、利常卿御隠居以後被仰付。その節石垣積立、地形根切処、鼠黟敷土中より出候故歟、鼠多門と名付けられ、御土蔵の壁の色も鼠色に被仰付。鼠多出候故に、其色に被仰付歟。長屋を多門と申故、両様兼ての名目歟。といへり。
(寛文から延宝年間「加賀国金沢之絵図」玉川図書館蔵)
(金城深秘録(後藤和睦著):底書「金城古跡誌」。加賀藩穴生方の著者で、金沢城の沿革、城内名跡、守城の手配等を記した文政8年の著書。「金城惣郭之図」4図が付き。第2冊末に「文政八乙酉年十一月十四日。後藤彦三郎和睦ヨリ借用写之」・第4冊末に「文政九丙戌年四月廿六日,後藤彦三郎より借用写之」の書写奥書ある。)
一説には、この門の壁色が鼠色なので鼠門と云い、俗称を「ねづみだ門」と呼んだとも云う。
明良洪範には、土屋敷は古く周りを築地にして、後には昔の多門の形を写し、長く建てつづけたもを、多門と云わずに長屋と云った。伝説によれば、鼠多門も多門と云う門で、鼠色の壁ゆえに、鼠多門と呼んだようです。そうだとすれば鼠が多く出でたりという説は、無理に関係づけたもので出鱈目かも・・・。
原文:一説には、此楼門の壁色鼠色なるにより鼠門と称せしを、俗にねづみだ門と呼べるなり共いへり。按ずるに、明良洪範に、土屋敷も古へは廻りを築地にせしを、後世には昔の多門の形を写し、長く建てつづけたれば、多門といはずして長屋といふ。とあり。右の伝説によれば、鼠多門も多門といふ門にて、鼠色の壁なりし故に、鼠多門と呼べるたるべし。然れば鼠多く出でたりといふ説は、附会の妄誕たりしと聞ゆ。
(明良洪範:江戸中期成立の逸話・見聞集。16世紀後半から18世紀初頭までの徳川氏及び諸大名その他の武士の言行、事跡等720余項目を集録する。江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持増誉(?‐1707,俗姓真田)の著。)
(完成まじか鼠多門)
加藤惟寅の蘭山私記に、宝暦9年(1759)4月10日の金沢の大火に、鼠多御門・七拾間御長屋門・金谷御門等が残るとあります。宝暦の大火にも関わらず、利常公寛永の頃造営命ぜられし時のままで、古い楼門でしたが、廃藩置県の後、明治17年(1884)7月10日の夜出火焼亡。
原文:さて右楼門は、加藤惟寅の蘭山私記に、宝暦九年四月十日の火災に、鼠多御門・七拾間御長屋門・金谷御門等相残る。とありて、宝暦の火災にも関わらず、利常卿寛永の頃造営命ぜられし時よりのままにて、甚だ古き楼門なりしかど、廃藩置県の後、明治十七年七月十日の夜出火焼亡せり。
(加藤惟寅:宝永2年父重長の後を継ぎ、四百石を賜る加賀藩士、綱紀以下七公に歴任し、天明2年秋歿、82歳。惟寅読書を好み、蘭山私記を著す。)
(工事中)
(工事中の掲示板)
拙ブログ
六斗広見の宝暦の大火
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12041889660.html
今は、鼠色の壁は伝説にしか残っていないが(金澤古蹟志が書かれたのは明治17年以後)、旧藩中は城内の櫓や楼門、太鼓塀は、殆どが白壁で、色壁は鼠多門の鼠色の壁のみ、なぜかと云うと、修理される時も、昔からしきたりで鼠色の壁にしたという。金子意永(?)が云うには、鼠多門は、作事所の伝説を因ると、天正年中越中の佐々内蔵助成政と合戦の時、分捕った古門で、佐々内蔵助成政が造った楼門といわれています?
(桔梗紋)
門の破風の桔梗の紋は佐々氏の定紋で?この楼門の修繕を命ぜられ、破風を毎度造替るが、桔梗の紋所等は昔のように造替するしきたりで、また鼠壁も佐々氏の時よりの色壁でした。佐々内蔵助成政と合戦の時、分捕った建物ですが、これだけでなく宮越に御船小屋と称した、旧藩中御座船の船覆で、その内に船共繋ぎ置かれ、船覆は、はなはだ古き物で、これは佐々氏の時の米蔵の鞘屋根だったのか、これも天正年中に分捕り舶覆にしたと言い伝えがある。平次(森田柿園)の思いは、天正13年秀吉公が佐々内蔵助成政征伐として、越中へ出馬した時の事か。
原文:故に佐々内蔵助成政を付けたり。佐々内蔵助成政。此の楼門の修繕を命ぜられ、破風毎度造替ありといへども、桔梗の紋所等往古よりの如く造替する流例也と。されば鼠壁も、佐々氏の時よりの色壁ならん。佐々成政と合戦の時分捕の建物は是のみならず、宮越に御船小屋と称し、旧藩中御座船の船覆ありて、其の内へ船共繋ぎ置かれたり。右船覆は甚だ古き物にて、是は佐々氏の時の米蔵の鞘なりしを、是も天正年中に分捕になし、舶覆にせられしといひ伝へたりとぞ。平次按るに、右は皆天正十三年秀吉公成政征伐として、越中へ出馬し給ふ時の事なるべし。
(鼠多門が佐々内蔵助成政の門だったと云うのは眉唾か?破風の桔梗の紋は佐々氏の定紋というのは間違いで、佐々氏の出自については二説あり、源氏の末流の佐々木氏、そして菅原氏の末裔の佐々氏で、一般的には佐々木氏と云われています。いずれにしても、定紋は「棕櫚」と宇多源氏佐々木氏の一族の家紋「隅立て四つ目結」で「桔梗」ではない・・・。)
(棕櫚の家紋と旗印の使った隅立つ四つ目結)
≪金澤古蹟志の鼠多門橋≫
この橋は、鼠多門より七十問長屋門口へ往来し、玉泉院丸より金谷出丸へ通路の橋で、宮守掘(いもりぼり)に架けたる板橋。廃藩後金谷出丸は廃地(現尾山神社)になり、この橋も不用になり、明治10年(1878)の秋頃、朽ち遂に取は拂われたようです。寛永16年6月の火災定書に、玉泉院丸前田日向守等5人、与力の召し連れ、御土蔵井に御殿火の用心を命じ、堤町坂口橋より出入したとあり。坂口之橋というのは、鼠多門橋のことで寛永の頃より存在した橋で知られていました。慶長の金澤古城図には、この門を記載され、寛永8年(1631)の二の丸造営の頃に架けられたのではないかと云う。
原文:此の橋は、鼠多門より七十問長屋門口へ往来し、玉泉院丸より金谷出丸へ通路の橋にて、宮守掘(いもりぼり)に架けたる板橋なりしかど、廃藩後金谷出丸は廃地と成り、此の橋梁も不用たるがゆえに、明治十年の秋頃、朽ち損ずるまゝ遂に取拂ひ、絶えたりけり。按するに、寛永十六年六月の火災定書に、玉泉院丸前田日向守等五人、与力之侍召連、御土蔵井に御殿火之用心可申し付、堤町坂口橋より出入可仕。とあり。右坂口之橋といへるもの、即ち鼠多門橋なるべければ、寛永の頃より素で存在せし橋梁なる事知られけり。慶長の金澤古城図には、此の門を記載せざれば、寛永八年二の丸造営の頃架けられたるならん。
(鼠多門橋)
江戸時代から明治の鼠多門と鼠多門橋
創建年代は明らかになっていませんが、江戸時代前期にはすでにあり絵図等から判明しています。城内の多くの建物が失われた宝暦9年(1759)の大火でも焼失を免れ、修理等を経ながら明治期まで存在していた。明治4年(1871)の廃藩後は、旧陸軍の管轄におかれ、明治10年(1877)に鼠多門橋が老朽撤去された後も倉庫などに利用されていましたが、明治17年(1884)に火災により焼失し、面影は失われていました。
(森田柿園)
略年表
天正11年(1583)前田利家公が金沢城に入城。
元和 9年(1623)2代藩主利長公の正室玉泉院逝去、屋敷撤去。以後玉泉院丸と呼ぶ。
寛永 8年(1631)二の丸御殿造営。
寛永11年 (1634) 玉泉院丸に庭園造営
宝暦 9年(1759)宝暦の大火、鼠多門は焼け残る。
明和 2年(1765)鼠多門橋を架け替え。
文化 9年(1812)鼠多門長屋を修理。
文化13年(1816)鼠多門を「玉泉院様丸御門」と公称。
文政 4年(1821)武具土蔵を新築。
明治 4年(1871)廃藩置県。兵部省(陸軍省)所管。
明治 4年(1871)オタンダ人医師スロイス邸宅(武具役跡)に置く。明治7年まで。
明治 6年(1873)金谷出丸跡に尾山神社遷宮。
明治10年(1877)鼠多門、老朽化のため撤去。
明治14年(1881)軍司令部になっていた二の丸御殿焼失。
明治17年(1884)鼠多門焼失。
昭和24年(1949)金沢大学開学(城内キャンバス)。
平成13年(2001)金沢城公園開園。
平成27年(2015)鼠多門、鼠多門橋の復元検討に着手。
令和 2年(2020)7月18日、完成予定。
(つづく)
参考文献:「金沢古蹟志三編」森田柿園 金沢文化協会 昭和8年発行ほか