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鼠多門と鼠多門橋②お抱え蘭方医の異人館

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【玉泉院丸→金谷出丸(現尾山神社)】

本日718日(土)、鼠多門・鼠多門橋復元工事の完成長町から武家屋敷跡、尾山神社、金沢城公園、兼六園を通り本多の森公園へ至る「加賀百万石回遊ルート」が形成されることを記念し、午後230分から金沢城公園内でイベントを開催します。

 

(鼠多門・鼠多門橋)

 

(イベントは、玉泉院丸庭園「今井昴&輪島・和太鼓 虎之介」による太鼓の演奏を午後230分~、430分~(各30分程度)が開催され、三の丸広場午後330分~、530分~(各30分程度)の鷹匠の実演と2回ずつ開催されます。(いずれも小雨決行、荒天中止残念ながらぬ本日の天気予報は、曇時々小雨、降水確率60%気温は28℃らしく、イベントが荒天中止にならないよう祈るしかありませんが、当日のから11月下旬まで高さ約3mの門扉の左右にある石垣海鼠壁、鉛瓦の屋根、橋脚や欄干などに発光ダイオード(LED)の光が当てられ、毎日ライトアップを実施するそうです)

 

 

(ライトアップ・写真北國新聞)

 

鼠多門は、石垣の上に2階建ての櫓を備えた構造で、連続した石垣内に扉があり、石垣の上に、威容を誇る22階の櫓が建ち、三御門(河北門・石川門・橋爪門)の枡形門とは異なる単体の門で、門を抜け坂道を上がると玉泉院丸の敷地に入ります。城内の他の城門と同じく、屋根は木型を薄い鉛の板で覆う鉛瓦、外壁上部は白漆喰(しろしっくい)塗りで、腰壁は海鼠(なまこ)仕上げとなっています。明治17年(1884)の焼失前の鼠多門は、海鼠壁の平瓦の目地を黒漆喰(くろじっくい)が用いられたとされ、他の門とは異なる特徴的な外観を復元したものです。2階建ての建物内は入館無料となっておりますので、自由に見学できます。

 

(鼠多門橋)

 

鼠多門橋は、江戸初期に建造された玉泉院丸金谷出丸(現尾山神社境内)を結ぶ木橋で、老朽化で136年前に撤去されますが、復元された橋は、鋼床版ラーメン構造の上に県木の能登ヒバで木装を施されたもので、長さ32.6m、幅4.3mの橋。なお、門、橋、及び付帯工事の総事業費は20億円だそうです。

 

 

(スロイスの御貸家、異人館)

 

お抱え蘭方医スロイスの異人館≫

明治2年(1869)旧暦617日に版籍奉還は勅許され、加賀藩は金沢藩になり藩主は非世襲の知藩事に任命された混乱の中、金沢藩から密命で藩御用達の軍艦を購入する目的で、明治2(1869)旧暦8月、滞欧中の金沢藩留学生伍堂卓爾が藩の正式な許可を得ず外人医学教師スロイスを独断で雇用契約を結びます。帰国後、もしも藩の許可を得なければ、切腹も辞さぬ覚悟であったものと思われます。

 

(当時、伍堂卓爾はオランダ医学を修めていたが、幕府の内命によって軍艦の新規購入は禁止されたため、急遽、オランダ医師の招聘に変更したもので、明治の金沢に西洋医学をもたらしたのは黒川良安と並び伍堂卓爾であったといっても過言ではないでしょう。)

 

 

(スロイス)

 

明治4年(1871)旧暦42日、スロイスは夫人を伴い金沢に着き、津田玄蕃邸跡の金澤藩医学館の隣の旧寺西邸に仮住し、講師宿舎として玉泉院丸の御武具方役所跡に建てられた洋風建物の異人館が完成し、そこに明治7年(1874)秋、帰国するまで過ごしています。

 

(スロイスの異人館跡)

 

異人館は、38755厘の敷地に、11273厘、間口14間、奥行84尺の杮葺きの屋根と厨房41坪は別棟、井戸2間四方、それに番所が16坪には門番が56人いたといいます。

 

(鼠多門の図)

 

スロイス夫妻が住んだのは鼠多門の裏手で、城内を歩き尾坂門を出て金澤医学館に通っていたそうで、当時は、二の丸の建物が焼失する前で、兼六園の噴水前には理化学校もあり、また、鼠多門橋を渡れば尾山神社が遷宮する前の金谷御殿跡もあり散策するのには事欠かなかったものと思われます。

 

 

明治4年(1871)旧暦3月、金沢藩庁は「近々、藩が雇い入れた外人医師が金沢にやってくるが、市中往来等で出会っても失礼や罵詈雑言をあびせたりすることがないように」また「医学館の外人医師には武士、百姓、町民を問わず診察してもらえ、入院も可能である」と御触れが出されていたそうです。

 

(7月16日、工事大詰めの鼠多門)

(7月16日日、工事大詰めの鼠多門)

 

スロイスは人格者で信望があり、月曜から土曜まで医学館に出勤し、午前8時から10時まで講義し、講義が済むと病院に出て入院患者と外来患者を診察し、夕方4時には帰りました。老人の診察は「高老の人は医学上特別に取り扱うべきものだ」というのが持論で、早くから老人医療の必要性を心に秘めていたそうです。

 

(明治の鼠多門と御土蔵の間の屋根が異人館か?後ろの大きなのが二の丸御殿・玉川図書館蔵)

 

スロイスの月給は当時の洋銀400ドルであったが、契約外の教授課目が増えたため200ドル昇給して、結局600ドルになりました。その頃の1ドルは1で、今の貨幣価値では1円が23万円ですので、月給1200万円~1800万円とかなり高額の報酬です。

 

(その頃、伍堂卓爾も金沢藩医学館教授となり、種痘医として活動。種痘とは、天然痘の予防接種のことです。)

 

(津田玄蕃邸跡の金澤医学館)

(金沢大学医学類・宝町キャンパスの記念碑)

 

金澤医学館は、廃藩置県に伴い、明治5(1872)はいったん閉鎖。明治6(1873)、石川県金沢病院として発足。以来幾度か名称を変えながら,明治17(1884)に石川県甲種医学校となり、明治20(1887)年の第四高等中学校設立に伴い,石川県甲種医学校は高等中学校医学部に移管統合され、金沢医学専門学校、大正12年(1923)金沢医科大学、昭和24年(1949)金沢大学医学部(1949)になり、現在は、金沢大学医薬保健学域医学類。

 

(金沢大学医学類・宝町キャンパスの記念碑)

 

≪後日談:金沢生まれのスロイスの子息来る。≫

大正9年(1920519日、明治4年(18713年間、金澤医学館に雇われ外人医師オランダ人スロイスの長男で、オランダの南米インド艦隊司令官スロイス提督(金沢生れ)が艦隊の神戸入港を機に金沢を訪問。関係方面では同提督を、金沢医学界の恩人の子として心から歓待し、亡父の教えた学校の遺跡を訪ねたという。明治5年(1872)に金沢で生まれたスロイス子息を案内したのは、高安右人(医専校長)、金子治郎、松原三郎の3教授で古い絵図面を示して、生誕地、医学館跡などを訪ねたそうです。

 

 

参考文献:「明治金沢の蘭方医たち」山嶋哲盛著 慧文社 平成77月11日発行など


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