【金沢城二の丸御殿】
金沢城は、明治2年(1869)版籍奉還により藩庁は長町の長家の屋敷へ、藩知事前田慶寧公は城を出て本多家の旧邸に移り、城には城番が置かれ、翌3年(1870)金沢藩にフランス式兵隊を編成のため城中に学塾兵堂が置かれます。明治4年(1871)7月廃藩置県により、前田家は東京に移り住みます。明治政府は藩を廃止し、地方統治を中央管下に府と県に一元化した行政改革に伴い、軍も一元化され金沢城は兵部省の所管になり、不要の殿閣や倉庫をことごとく破壊します。
(橋爪門)
(明治5年(1872)には城地は陸軍省になり、明治6年(1873)1月には、「徴兵令」が布告されると、城内に名古屋鎮台の分営が置かれ、金谷出丸は尾山神社になります。明治8年(1875)には歩兵第7連隊が置かれ、旧二の丸御殿の菊の間(旧藩主の居間)に連隊本部、御広式、御部屋方は病院となり、越後屋敷、作事所、割場会所など新丸の建物は取り払われ第1大隊の兵舎に、明治9年(1876)二の丸御殿の松の間、竹の間、膳所台所と五十間長屋を第3大隊の兵舎になります。)
(現在の金沢城・公園内の案内板より)
明治14年(1881)1月10日早朝、金沢営所から出火し、二の丸御殿・菱櫓・五十間長屋も灰燼に帰しました。火災の原因は、言い伝えによると当番兵の過ちとも、ラッパ長の酩酊による失火とされています。ちまたでは兵士が酒の肴を焼いていた火鉢の火が、板の間の隙間に落したとも云われています・・・?詳しくは不明だそうです。火は御殿に葺かれていた銅板がそのまま落ち、櫓の鉛瓦は溶けて垂れ落ちたため、消火も侭ならず燃えてしまったと云われています。
(イメージ・菱櫓)
二の丸御殿で焼け残った建物
前回にも書きましたが、二の丸御殿の建物だった「唐門」と共に明治3年(1870)に卯辰山に明治維新の越後奥羽の乱(戊辰戦争)で戦死した加賀藩武士の御霊を祀るため13代藩知事慶寧公が設けた顕忠祠(けんちゅうし・明治30年に招魂社に格上げ)の拝殿とし移されていた二の丸御殿の舞楽殿(能舞台)は、結果として二の丸御殿の火災に遭わずに残りました。
(東神門)
(二の丸能舞台の図)
(昭和の中村神社の拝殿)
(昭和10年(1935)に現石引4丁目に新社殿を建立し、御霊のみを移し、昭和14年(1939)に石川護国神社と改称されます。しかし、旧招魂社の拝殿となっていたこの舞楽殿と神門は卯辰山に置き去りになります。その後、神門は尾山神社の東神門(昭和38年)として移築されますが、残された舞楽殿は静かに卯辰山の樹木に包まれ忘れ去られていました。昭和42年(1967)金沢市中村町の中村神社の拝殿に移築し修繕を行い、昭和43年(1968)に竣工慶賀祭を斎行します。平成16年(2004)には文化庁の登録有形文化財にも指定され金沢城内の数少ない建物として、金沢の大切な歴史的建造物の一つです。)
(能舞台の塗格天井の絵と欄間)
中村神社の拝殿(元二の丸御殿の舞楽殿)は、桃山風建築様式総ケヤキ造りで、欄間には加賀藩の木彫名匠である武田友月(1772-1844)の作と伝わる一本彫りの龍が四方に金色の目を光らせていて、塗格天井には極彩色の絵が描かれ、重厚に組まれた黒漆の格子には金の金具が使われています。
(塗格天井の絵)
拙ブログ
マルチな遠所者、武田秀平(友月)
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12010082463.html
旧舞楽殿(能舞台)は二の丸御殿に隣接する形で建設された独立した建物で、床の広さが三間二尺四方(約6m)と手頃であったため卯辰山の顕忠祠(後の招魂社)に選ばれたものと考えられていますが、結果的にはこの移築が幸いし城内の火災には遭いませんでした。今も、欄間の龍が水を呼んだために火災には遭わなかったと伝えられています。
(北國新聞の記事)
(この項おわり)
参考文献:「金沢城物語」森栄松著 石川県図書館協会 昭和34年4月発行・「よみがえる金沢城1・2」石川県教育委員会発行 北國新聞社発売・中村神社パンフレットなど