【金沢城二の丸御殿】
文化7年(1810)7月27日、表舞台、菱櫓、五十間長屋落成を経て、藩主斉広公の城内巡覧。明けて文化8年(1811)2月。二の丸御殿および諸建物の完成を祝し金沢城下に2日間の休日が布令され、「盆正月」祭りが挙行されています。さらに、藩主斉広公は、領民挙げての協力体制での御殿等の再建を、藩士以下領民と共に祝いねぎらうため、2月に6日間と閏2月に5日間、能楽(規式能、慰能)による慰労が挙行されました。
(夜景は、三の丸より菱櫓・五十間長屋・橋爪門・続櫓)
(藩は当時、財政的の余裕もないのに、斉広公は藩士や庶民を招き斉広公時代、最大のイベント規式能の観覧・慰能の参観を実施します。その理由について“藩の支配に関わる事”だと述べ、二の丸御殿の再建は諸士や庶民の多額な資金・資材の献納で完成したのは、藩主が常に“仁政”を心懸け、一方、藩主が困った時には庶民が支える、そのような藩主と領民の結びつきが藩政の基礎であり、藩の支配の根幹なので、二の丸御殿は、諸士や庶民の献納によって完成したため完成の喜びを共にする場が“規式能”である。と・・・)
(能舞台のイメージ)
規式能(きしきのう)は
規式とは定まった作法とか方式と云う意味ですが、加賀藩で“規式能”というのは藩主が家督相続と初入国を祝って“能”を催す先例があり、4代光高公から1日ないし2日で行われていましたが、6代吉徳公の時から作法が整備され6日間にわたり挙行されました。8代重煕公も7代重靖公の時は早世で行われず、文化の“規式能”は7代重煕公以来、延享5年(1784)から数えて60数年ぶりで挙行されました。9代宗辰公も早世で10代重教公に時は就任早々に宝暦の銀札騒動や3年後の宝暦に大火のため祝うような雰囲気でなく財政的にも余裕がなく、11代治脩公の時も財政難で実施されなかったが、12代斉広公は、二の丸御殿の落成を祝う意味を込めて挙行されたものと思われます。最も12代斉広公が無類の能好きだっことも有るかも知れません!?
(能舞台のイメージ)
慰能(なぐさみのう)は
慰能は、通常は藩主が気晴らしのために催すのだそうですが、この場合は,藩主斉広公が自ら演じて藩士や庶民をもてなし、二の丸御殿造営を直接感謝する意味があったらしい、また、規式能は前回行われ8代重煕公の時と同規模だったので不満が残ったと思われ、それを補うため、規式能の翌月閏2月に引き続き行われたのが“慰能”だったのであろう。
(二の丸御殿の能舞台と白洲)
文化8年(1811)の規式能
2月2日より6日間にわたり実施され、初日から5日目までは藩士達が、6日目には寺方が招かれ、能を見物し、料理が振る舞われました。
(三の丸より菱櫓)
藩士・寺院見物の割り当て
見物人の区分 | 日付 | 人数 | 料理 |
年寄・人持・頭分等 奥、表、大小将等 馬廻組 定番馬廻組・組下 射手・異風・与力・歩 寺方(宝円寺・天徳院等) | 2月2日 2月6日 2月11日 2月13日 2月15日 2月18日 | 241人 413人 574人 518人 535人 164人 | 二汁五菜 一汁三菜 一汁三菜 一汁三菜 一汁二菜(与力一汁三菜) 二汁六菜(伴僧二汁五菜) |
合計 |
| 2,445人 |
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この他に出役した藩士には、上・下の台所で朝夕賄いが出されており6日間の合計1万8,845人、内6,095人は御歩並以上、残りは足軽以下。さらに、役者(総人数359人、内46人は舞台の役柄で神聖さを保つため別火で調理)が出されていて、6日間朝夕合計して2,716人、その他にも賄いを受けた者が134人おり、これに合わせた料理・賄いの総数は2万4,140人でした。
●白洲では、3間に9間の仮屋が二筋建てられ、その中に町方、郡方の者の見物が許され、町方は金沢町の本町も住民で、赤飯と酒が与えられました。(六日間で町方2,604人・郡方758人)
(二の丸の模型)
文化8年(1811)の慰能
慰能は、規式能だけでは、藩士や領民への感謝の思いが伝わらないと感じた?斉広公は、それを補うために催されたものと思われますが、翌月の閏2月10日、13日、16日、19日、22日の5日間にわたり実施されました。
招かれた藩士は、初日、人持・頭分・大小将など、二日目、馬廻など、三日目、常番馬廻・組外・射手・異風など、四日目、諸組小頭・新番小頭・新番組御歩・儒者・医師・与力など、五日目、御歩などで、人持・頭分以上は一汁三菜・平士以下は一汁二菜・御歩などは一汁一菜の料理が出されました。
●白洲は、地子町の組合より一人1,700人、七カ所町の組合より一人473人、地子町組合頭・肝煎など1,140人・御門前町など87人・町方、作事方大工1,816人・台所、奥納戸御用聞63人・寺社方門前地100人・宮腰,郡方100人・造営方懸り足軽140人・台所付同心70人で1日平均およそ1,140人。5日間で合計5,689人が見物を許され、酒は出さず、赤飯のみが供されました。
(慰能の初日は、朝六つ半時(午前7時)から始まり、その日は穏やかで菱櫓の横より朝日が射し込み舞台を照らし、何とも神々しい情景で、藩主斉広公は「老松」ではシテを演じたと伝えられています。)
(橋爪門と続櫓の夜景)
拙ブロブ
12代藩主前田斉広公と竹沢御殿➀
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斉広公は、規式能、慰能を終え、まだ興奮醒めやらぬ中、文化8年(1811)3月14日に江戸に旅立ったという。
(長山直治著「寺島蔵人と加賀藩政」)
(つづく)
参考文献:「寺島蔵人と加賀藩政」長山直治著 桂書房 平成15年9月発行・「金沢城物語」森栄松著 石川県図書館協会 昭和34年4月発行・「よみがえる金沢城1・2」石川県教育委員会発行 北國新聞社発売 平成18年3月・平成21年3月発行・「平成16年度城と庭の探求講座「金沢城大学」レジュメほか