【金沢城二の丸御殿】
文化5年(1808)1月15日の大火後の二の丸御殿は、家臣や町人・百姓等の献納もあり、2年という短い期間で再建事業を成し遂げています。しかし、宝暦11年(1761)の宝暦の大火後の再建は、文化2年(1803)11月1日土橋門造営完成まで43年間も掛かり、しかも、表向きの竹の間(大広間)など表御殿が先送りされたまま、文化5年(1808)正月、出火します。
(現在の三の丸より橋爪門・五十間長屋・続櫓と菱櫓)
文化7年(1808)7月に表式台・大広間(竹の間)が落成し再建された二の丸御殿は、建坪3,225坪(約10,000㎡)、宝暦の大火後には無かった竹の間(大広間)や新たに造られた奥能舞台なども増築され、廊下、縁を除くと60をこえる部屋が在り、金沢城最大の御殿が造られます。
(因みに、江戸城本丸御殿(11,300坪)には及ばないものの、復元中の名古屋城本丸御殿の建坪1,090坪(約3,600㎡)国宝の二条城二の丸御殿は建坪1,000坪(約3,300㎡)より約3倍とはるかに大きい金沢城の二の丸御殿は、日本の平均的な住宅なら80~90軒にも当たります。)
(二の丸御殿・巌如春画・長町休憩館)
「表向き」は玄関近く御殿の東側に位置し、竹の間(大広間)・表能舞台・柳の間・松の間・小書院・奥書院・虎の間・台所そして藩政初期から有る実検の間等が有り、藩士が勤務するところでした。
「御居間廻り」の藩主の御寝所・御居間・御居間書院・奥能舞台、近習が勤務し正月に鶴の包丁式が行われた舟の間の二の間等、藩主の日常生活する空間で政務を執るところです。
「奥向き」の藩主と女性の空間で御広式と一段低いところ(現旧旅団司令部跡)の部屋方が有り、部屋方は数奇屋丸と称し、御広式で働く御殿女中の住居がありました。奥向きは藩主以外の男子は出入りできない空間で、出入口には御鎖番の御歩がいて厳重に出入りを監視していたそうです。
(文化年間の表向き・御居間廻り・奥向きの図)
部屋の名称は障壁画!?
部屋の名称は、御殿が本丸に在ったころに付けられたものか、二の丸に御殿が造営されたものは定かでは有りませんが、主に障壁画によって称していますが、玄関や実検の間、能舞台の鏡の間は、昔、京都の足利将軍家よりの遺称と云われています。
「表向き」の部屋の広さと天井、障壁画の一例
玄関 表式台(63畳)天井金箔紗菱形 金地着色若松、
裏式台(板の間)
実検の間(45畳)板天井 金地着色蘇鉄
虎の間(28畳)二の間(21畳)碁天井 金地着色5匹の虎と岩
竹の間(大広間)
折上碁天井上段(28畳)金地着色緑の竹 下段(28畳)
竹の間(31,5畳)(31,5畳)二の間(31,5畳)三の間(31,5畳)四の間(35畳)碁天井に金地優曇華(うどんげ)の意匠
矢天井の間(45畳)金地着色春草
柳の間(21畳)二の間(21畳)三の間(42畳)
他、松の間 二の間、奥書院 二の間、桧垣の間、滝の間、芙蓉の間、牡丹の間、萩の間、
表能舞台 鏡の間(楽屋)
(イメージ写真・能舞台)
障壁画の上位は山水画、中位は王義之などの中国の人物、下位は花鳥で格付けがされていたようです。文化の再建では、中位には中国の人物の障壁画はなく、杉板絵に散在しているそうです。絵師は、京都から金沢ゆかりの岸駒(従五位越前守)岸岱の父子、江戸からは狩野祐益等、地元からは佐々木泉景、梅田九栄などが見られます。
拙ブログ
並木町⑵静明寺③岸駒
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10517829494.html
(宝暦の大火前の二の丸御殿)
(文化の大火前の二の丸御殿・大広間がない)
(文化大火以後の表向き・竹の間(大広間)
参考:玄関、実検の間、鏡の間は足利時代の遺称と言われていますが、森田柿園の「金沢古蹟志」によると、玄関というのは昔、寺には有りましたが、武士の家には玄関が無く「言関」と云ったという、家に訪れる時はその名を聞き問う事から「言葉」の「関」と云う事から、そのような字を書いたと云ったという説もあるらしい。また、実検の間は、戦国の頃から戦で獲った敵の首実検をする部屋で、武士だけが設けていた部屋で、蘇鉄が描かれていたので蘇鉄の間とも云われていました。金沢城では再建される毎に二の丸の表玄関に設けられていました。しかし、二の丸御殿が造られてから藩が終わるまで、ここで首実検が行われたことは一度もなかったという。鏡の間は、能舞台の楽屋で姿見の鏡が有ったのでそのように云われていたそうです。
(現在の橋爪門から二の丸御殿玄関辺り)
(橋爪門・雁木坂・二の丸御殿玄関の図)
(二の丸御殿玄関辺り・北國新聞より)
二の丸御殿の唐門
今も尾山神社の裏にある「東神門」は、現存する旧二の丸御殿の唐門は、寛文2年(1662)2月、当時城代の小幡宮内の書簡に唐門に使われる材木を越中庄川より引寄せたという記事が有るそうです。寛永8年(1631)の火災で焼けた本丸に在った唐門を、古例に習い二の丸に同じものが建てられ、以来、金沢城の宝暦、文化の大火にも焼け残り、明治の火災では、明治3年(1870)卯辰山の招魂社の門として移築されていたので、またまた焼け残ります。
質実さと趣を兼ね添えた、とても貴重な建造物です。この唐門が幾多の火災をくぐり抜けてきたのには、門に彫られている2匹の龍が水を呼んだからという言い伝えがあります。
(唐門・現在の尾山神社の東神門)
(東神門は、一間一戸の向唐門で、屋根は桟瓦葺。主柱は円柱、控柱は角柱で、両開き桟唐戸をたて、頭貫上は蟇股と波彫刻、桁上は大瓶束と雲竜彫刻をあしらっています。)
(つづく)
参考文献:「寺島蔵人と加賀藩政」長山直治著 桂書房 平成15年9月発行・「金沢城物語」森栄松著 石川県図書館協会 昭和34年4月発行・「よみがえる金沢城➊❷」石川県教育委員会発行 北國新聞社発売 平成18年3月・平成21年3月発行・「平成16年度城と庭の探求講座「金沢城大学」レジュメほか・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」ほか