【金沢城二の丸御殿】
二の丸御殿の再建は、焼失から3ヶ月後の4月13日に、斉広公は当時としては機能を優先した組織を二の丸御殿の一角に立ち上げます。その役所は造営方役所と云い、最高責任者は八家の金沢城代村井長世・前田孝友でその下に8人の特任の造営奉行が任命し、造営奉行の1人に関屋中務政良(550石)は“定番頭並近習御用”という藩主の側近で、本来は金沢城代が藩主に言上するのが筋ですので、そのようにする一方で、藩主は関屋を通して意向を伝えた方が迅速かつ的確であり、その様なケースもあったと伝えられています。
(スタッフは、造営奉行8人(作事奉行兼務1人、普請奉行兼務2人)、内作業奉行6人、買い方与力3名、御徒横目5人、経理事務担当の算用者4人、書記役の書留足軽(輪番勤務5人)、応接役の取次足軽(輪番勤務6人)、他に宿直の横目足軽、掃除裁許人など下級武士)
(二の丸跡より菱櫓)
二の丸御殿再建に動員された職人や町人や百姓は延べ約1万人
・普請会所に所属する安生方、御扶持人石切(足軽クラス)二十人石切(小者クラス)
・作業所所属の御大工・御壁塗・御扶持人大工
・町の有力者及び職人
(町石工・石屋・町方大工(金沢組大工)、越中組大工、遠所大工、造営方御用担当の町肝煎、日用頭、町方人夫縮方役、山方人夫縮方役、宮腰材木肝煎、建具職人、木挽、板批、鍛冶、屋根葺、左官などの棟梁や肝煎など、動員された職人総数は数千人)
・その他有償・無償の人足数千人、
(ほか、この再建にかかわった町人、職人、百姓など1万人を超えたと推測できます。)
(金沢城平面図・城址公園の看板より)
これらの必要物資を調達し、給料を払い、現場全体を監督したのが造営方役所で、作業の細かい指示は、内作業奉行で御大工とともに監督したのが造営方役所で、職人や絵師に藩主の意向を尊大に言い付ける役人に反発する職人や絵師のトラブルにも間に入り、怪我人や病人の世話までマメに対応し、2年という短い期間で再建事業を成し遂げています。
(北國新聞より)
造営事業の進展
文化5年(1808)
6月28日:木造始めの儀式。
(再建規模は3,225坪(二の丸総面積4,300坪、標高50m)・人足は毎日数千人必要)
7月25日:御柱建ての儀式。
7月26日:藩主斉広公、造営現場を視察。
10月27日:幕府より再建許可の老中奉書が下る。
11月13日:明年3、4月頃に御殿に移住できるよう督励される。
(金沢城大広間・巌如春画、長町休憩館の年中行事図より)
正月27日:江戸の絵師狩野友益・墨川父子、造営方御用のため金沢に来る。
2月24日:二の丸御殿の上棟式。
(棟札を納める。橋爪御門枡形落成(櫓はあと)棟札を納める。)
4月26日:藩主斉広公、仮住まいの本多家より二の丸御殿に移る。
(中奥・御広式付近のみ落成)
4月26・27日:御殿移住を祝い盆正月祭り金沢と宮腰町で挙行。
5月朔日:二の丸御殿柳の間で、月次登城の藩士に御殿竣工を慶ぶとの御意。
6月:3月に着工した裏口門落成し、棟札を納める。
7月29日:五十間長屋・表御式台落成。
8月26日:京都の絵師岸駒(越前守)父子、造営方御用のため金沢にくる。
12月16日:絵師岸駒・岸岱父子、帰京。
12月:二の丸御殿の大広間(竹の間)・橋爪門続櫓・菱櫓が竣工。
(殿中の図・巌如春画、長町休憩館の年中行事図より)
文化7年(1810)
正月朔日:二の丸御殿奥書院・小書院・大広間で年頭の儀式。
正月3日:新造された二の丸御殿の御礼、人に披露する。
正月7日:前藩主治脩公、金谷御殿にて病死。(服喪中普請中断)
4月18日:二の丸御殿の杉板の絵配り決まる。
4月25日:表式台・竹の間落成、作事奉行以下約1,800人の職人等祝う。
7月27日:表能舞台、菱櫓・五十間長屋が落成、藩主城内巡覧。
(本日をもって御造営方役所は閉鎖とする。(以上「加賀藩史料」など)
(二の丸図・城址公園の看板より)
(再建逸話➀:文化6年(1809)4月、藩主斉広公が二の丸御殿に移った頃、表御殿は未完であったが資金繰りがつかなくなり、算用場奉行から、宝暦の再建でも表御殿は再建しなかったのだから、今回もここで終了にしてはどうかという提案があり、これを一旦了承した城代から藩主に言上したが、斉広公は、これだけの献金を領民からうけた以上、ここで中断するのは無念である、何とかやり繰りして表御殿まで造営して欲しいという意向が示され、5月以降、表御殿の再建が進められ文化7年正月、欄間や障壁画など未完のところが多く残っていたが、新装の表御殿で年頭礼が行われます。落成は、その年の7月27日でした。)
(五十間長屋と菱櫓)
(再建逸話➁:二の丸御殿造営について詳細な記録が残されています。それは造営奉行高畠五郎兵衛厚定のの役務日誌で、玉川図書館近世史料館の”加越能文庫”という古文書の中に収められている「御造営方日並記」です。現存するものは、文化6年4月から7年の6月23日までの352日間の記録で、大学ノート半分ぐらいの帳面15冊分550枚近くで、毎日書いたものではなく、メモを整理したものだそうです。詳しくは多分、県立図書館に有ると思いますので、興味の有る方は、「金沢城史料叢書1・2「御造営方日並記」上・下巻」でお調べください。)
(つづく)
参考文献:「寺島蔵人と加賀藩政」長山直治著 桂書房 平成15年9月発行・「金沢城物語」森栄松著 石川県図書館協会 昭和34年4月発行・「よみがえる金沢城」石川県教育委員会発行 北國新聞社発売 平成18年3月発行・「平成16年度城と庭の探求講座「金沢城大学」レジュメほか・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」ほか