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金沢城二の丸御殿④文化火災と再建その㈠

【金沢城二の丸御殿】

文化5(1808)正月15日、暮れ六つ時(午後6時頃)に二の丸御殿「松の間」(柳の間と書かれたモノも)の火鉢の残り火から出火、二の丸御殿・広式が全焼、ほか菱櫓・五十間長屋・橋爪櫓・橋爪門・楽屋多門・御雛土蔵が類焼します。この日は藩士達の月次の登城日で、藩主斉広公は江戸で留守、年寄衆が藩士達に謁見していたが藩士の出入りが多く混雑していたため火の始末が疎かになっていたのでしょうか?江戸への急便は、15日の夕方金沢を立ち、21の夜9つ時(午前0)過ぎ江戸藩邸に到着。斉広公は313に幕府から帰国の許可が出ると、16日に江戸を立ち、328に金沢に帰り、仮住居の御座所本多安房守の屋敷に着きます。

 

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(菱櫓・五十間長屋・橋爪門)

 

火災をめぐる逸話:隠居の治脩公は、焼け残った金谷御殿で悠然とうどんを2杯食べた話、出火場所をめぐる対立が有ったらしい、また、五十間長屋所蔵の鉄砲や書物類を鶴の丸に運び出し、五十間長屋の窓から堀に投げ大半が残ったといわれているが、菱櫓内にあった矢などは殆んど焼失したという。)

 

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(三の丸より橋爪門)

 

初めて斉広公が焼失現場を見分したのは58日。年寄達は、宝暦の大火の際、5万両を借りた先例にならい幕府へ再建資金を申請するよう提案しますが、斉広公は別の思いがあったのか、それを却下します。財政状況が厳しい中、何を考えていたのかよく分かりませんが、若い22歳の新婚の斉広公の百万石の太守としての誇りが許さなかったのかもしれない!?一方、幕府からは参勤が猶予され、3年間の在国と、5年間の幕府献上物の一部省略が認められます。

 

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(五十間長屋)

 

(12代斉広公は、享和2年(1802)に、治脩の隠居により家督を継ぎ、加賀守を称し、21歳の時、文化4年(180712月18日(文化の火災の一ヶ月程前)に江戸で鷹司正凞の女夙姫と御婚礼が整います。初めの正室の琴姫とは享保3年(180312月結婚しますが、2年後の文化2年(18058月、琴姫は病気を理由に実家高須藩の市ヶ谷藩邸に移ったまま戻らず、翌38月離縁、後に琴姫は近衛基前に再嫁しています。継室の夙姫と結婚しますが、前田家では後添えはもらわぬと称していたというが、斉広は慣例を破って継室を迎えた。また、初めての公家からの正室でした。)

 

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(橋爪門)

 

一方では火災の直後から、御殿の被災を知った藩士・町人・百姓から材木・資材・金銀・などの献納の申し出が相次ぎ、2月に入り江戸の斉広公から礼状が出ます。

 

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(二の丸御殿)

 

1月中の献納記録

粟ヶ崎の豪商木屋藤右衛門から材木(長さ10尺幅2尺の草槙7本、長さ15尺幅2尺の檜5本、ほか尺角の草槙50本など、他に冥加金200貫目(金約3,400両)の献上の願出あり。

八家・人持組層から献金の申し出あり(本多家100貫目・前田土佐守家30貫目・奥村宗家500両・村井家30貫目・津田家10貫目など

③庭の大木、糠漬大根1000本など

④能登両郡十村組から無償労働提供など

⑤町方奉公人からも献金の申し出あり

⑥能登奥郡の十村11人から献納15300匁など、合計銀399600匁・能登口郡から銀430貫匁(2年間で4回分割の納付願いあり)

 

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(斉広公)

 

などの二の丸御殿再建の献金一覧によると金・銭・米なども含め

5835貫目(約10万両)

に成ったと記録されています。

 

文化5年、金沢城二の丸御殿再建献金一覧

身分

銀高()

()・銭(貫文)

家中(年寄・平士・足軽等)

867,036

565103

47貫文500

町方(金沢・小松・高岡など)

1,417,157

32104

324貫文

郡方(加賀・能登・越中)

,132,712

19521

2294貫文

その他(寺社・大坂蔵元・御用商人等

194,700

341

20貫文

 

この献金が再建費用銀6,900貫目86%にあたる約銀6,000貫目で、家臣や領民や豪商の献金で賄われたと云われています。21日の斉広公御親翰で、謙虚に「自分は不徳不肖の藩主であるのに、こんな献金があるのは、ひとえに先祖の宿善に候」といって喜びを表したといいます。献納は、当時の人々が自発的に行ったものとは思えませんが、仕掛けた者がいたとしても、斉広公の御親翰の冒頭に「奇特の至り」とあり、加賀藩で暮らした我がご先祖さまの生き様が見えてくるような気がします。

 

(元々、加賀には一向宗の門徒が多く、信長の過酷な殺戮から生き残るためには、寝返ったり密告者で生き残った者が定着し、面従腹背の気風が、時代の流れで飼殺されお殿様依存症に陥り、やがて思考停止になり、本当に権力に弱く御上に従順になり、生真面目根性良しでないと生きられなかったのでしょう。)

 

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拙ブロブ

12代藩主前田斉広公と竹沢御殿

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11733078614.html

 

(つづく)

 

参考文献:「寺島蔵人と加賀藩政」長山直治著 桂書房 平成159月発行・「金沢城物語」森栄松著 石川県図書館協会 昭和344月発行・「よみがえる金沢城」石川県教育委員会発行 北國新聞社発売 平成183月発行・「平成16年度城と庭の探求講座「金沢城大学」レジュメほか・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」ほか

 


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