【金沢市・金沢城二の丸】
宝暦大火以後、金沢城の再建整備は、結果的には復興に約半世紀の歳月を要しています。二の丸御殿だけを見ても2年後の宝暦11年(1761)4月に上棟式を行い翌々年4月に重教公は一応入居するものの、表御殿や表式台、能舞台は未完のまま、文献によると表玄関や表式台の完成は安永3年(1774)5月に、天明7年(1787)に御広式や御居間が増築されるまで大火から28年もかかっています。
(二の丸御殿跡)
何故そんなに時間がかかったのでしょうか?
金沢城の被災箇所が多く、金谷御殿を残しほぼ全焼したこともありますが、それより大きいのは財政難。藩の蔵には“金銀”が全く無く借金まみれ!!そして、若い10代重教公が剛直で藩の重臣達としばしば対立し藩政に対する意欲を失い、財政難を打開するため将軍家から養子を迎えようとしていました。
(東の丸跡)
(前回に書きましたが幕府から5万両(明和2年(1765)暮れに完済)の借金をしたのでしょうか?その頃には、そろばん名人の藩祖利家公が軍用金として貯めた蓄財が、宝暦3年(1753)まで9年間で、10代藩主重教公の兄にあたる7代、8代、9代の3人が相続しながらいずれも早世し、その間、相続の儀式などの莫大な費用を遣ったため、重教公が相続した頃には、東の丸に3棟あった金蔵の「獅子の土蔵」の蓄財は底が尽き、襲封して間もない13歳の10代藩主重教公の時、不足する金銀を補うため不換紙幣の”藩札”を発行しますが、市民は紙のお金を信用できず、物価が上がり経済が混乱し、米価が60倍に膨れ上がり、米穀商の打ち壊しが起こるなど大失敗します。それに追い打ちを掛けたのが”宝暦の大火”でした。)
(参考・よみがえる金沢城)
加賀前田家10代前田重教公
6代藩主前田吉徳公の7男で、吉徳公の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち4番目の藩主です。寛保元年(1741)に金沢に生まれ、そのまま金沢で成長します。当初、加賀藩年寄村井長堅の養子になる予定でしたが、宝暦3年(1753)5月に藩主となった異母兄重靖公の命により、村井との養子の約束を解消して前田家に留ります。宝暦3年(1753)10月5日、加賀藩は藩主重靖公の病死。後継者であった重教公は、麻疹にかかって江戸へ出発できず、宝暦4年(1754)2月、健康を回復して江戸に向かい、宝暦4年(1754)3月11日、将軍徳川家重に御目見し、末期養子として家督を相続し、また将軍家重から偏諱を授かって重基に改名するが、宝暦5年(1755)12月、左近衛権中将に昇進し、明和2年(1765)、将軍世子家基の諱を憚って重基を重教に改名します。
(前田家の梅鉢紋)
(当時の加賀藩の財政事情:重教公の父6代吉徳公の時代から藩は財政が危機におちいります。伝えられる原因は、吉徳公は側室も多く、奥の風儀も良くなく、吉徳公は中年になると政務も緩み、国政を議する場には殆ど出ることもないと云われていますが、本質的には、土地経済から貨幣経済への切換えの過渡期であったと見られます。当時の藩士で学者の青地礼幹の記録によると、大坂表の御用商人からの借上げた金高は積もりに積もり、銀2万貫に及んだと記されているらしく、銀2万貫は40万石に相当し、加賀100万石の40%までが大坂表の借財だったことは深刻です。5代から6代に掛けて、前出の東丸の獅子土蔵の金蔵を開き、やり繰りをしていましたが、延享2年(1745)吉徳公が亡くなると宝暦3年(1759)までの9年間に早世した7、8、9代の兄達の代に遣い果たし、重教公が襲封する宝暦4年(1760)には”銀札“の発行で財政を立て直そうとしますが、大失敗。明和4年(1767)7月には、大坂・江戸の総借銀高は5万7000貫目に達し、その利息は3500貫目、その利息の支払いだけで藩の年収の半分になり、ついに藩は藩士の懐に手を入れ始めます。明和8年(1771)11月には翌年から3年間実施を命じられた藩士に与える知行の一部を藩が借り上げるもので、期限が過ぎたので一旦返還されるが、大坂表との関係修復の財源というかとから再度徴収され、その割合は知行100石以上の者は、100石につき15石あて、それ未満は10石あての割合とされ、知行の借り上げといっても返されることはなく、事実上は減俸でした。これは、後の天保の改革で、天保8年(1837)に“半知”と云われる知行の半分を借り上げると命じた先例となります。)
重教公が藩主就任前後、加賀藩では加賀騒動の余波が続き、宝暦4年(1754)まで保守派による大槻伝蔵一派の粛清が続き、また相次ぐ藩主の交代により藩政は停滞し、藩の財政は苦しいままで、追い打ちを掛けるような宝暦9年(1759)4月10日に宝暦の大火が起こり、明和8年(1771)に重教公は31歳で家督を、4歳下の異母弟の治脩公に譲って隠居しますが、死の1年前の天明5年(1785)まで、隠居で有りながら、藩政に口を出したと云う、息子の斉敬、斉広が治脩公の養子になります。天明6年(1786)に46歳で死去します。
(重教公は、歴代藩主の中でも恵まれた才能の持ち主で、鉄砲、乗馬、騎射など武芸に優れ、蹴鞠や漢詩も巧みで、特の能・鷹狩を好み、隠居と云っても30歳代の青年、好きな能や鷹狩で悠々過ごしたという。ところが天明3年(1783)の大飢饉が藩を直撃するとその年は冷害で、全国的な大凶作となり、浅間山の噴火している最中の7月5日に、9月か10月に江戸へ出府すると言い出し、9月11日に金沢を発ち、北国街道が通行出来ないため、東海道回りで江戸に赴いたという。この重教公の行動には、浅間山の大噴火を幕府の危機と考え、将軍のそば近く居て幕府を支えようとしたものと考えられています。)
長山直治著「寺島蔵人と加賀藩政」には、重教公の次男12代斉広公の生涯を見ると親子が極めてよく似ていると書かれています。40歳代に好きな能を催した後、病床に付き間もなく没したことや藩士の上書を採用し、かなり強引な政治改革を試みて挫折したこと、藩士たちの風俗の乱れを問題にし、多くの藩士を処罰したこと、藩士に文武に励むことを求め、自分の能好きを棚に上げ、余技に耽ることを戒め、特に女子の三味線を問題にし、禁じています。特筆すべきは、途中から藩政に嫌気がさし、やる気をなくし、早々に隠居してから藩政を執行したことなど、気ままで直ぐ重臣と対立し、投げ出したところなどは似た者親子。いずれもはじめから藩主が約束されていないお殿様であったことは確かです。
(参考・寺島蔵人と加賀藩政)
参考文献:「寺島蔵人と加賀藩政」長山直治著 桂書房 平成15年9月発行・「加賀藩経済小史・財政と武士生活」八田健一著 石川県図書館協会 平成5年3月復刻・昭和8年発行・「よみがえる金沢城」石川県教育委員会発行 北國新聞社発売 平成18年3月発行・「平成16年度城と庭の探求講座「金沢城大学」レジュメほか・フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」ほか