Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

金沢城二の丸御殿②創建は寛永大火の翌年。そして3度も焼失(その一)

$
0
0

【金沢市・金沢城二の丸】

俗に“法船寺焼け“と伝えられている大火は、寛永8年(16314月、城下犀川橋爪にあった法船寺門前の民家から出火し、あっという間に本丸辰巳櫓に飛び火し、本丸をはじめ城の中心部が燃えたと云います。その火災後、3代藩主前田利常公二の丸付近を拡張し、三の丸の間に堀を掘削し間にあった谷が埋められ、約4000坪の平坦地が生れ、そこに二の丸御殿が翌年(1632)中に完成したと伝えられています。

 

 

(今の橋爪門・後ろの石垣は本丸跡)

 

本丸は、それ以前にも慶長7年(1602元和6年(16202回火災に遭い、慶長7年(1602落雷で、わずか15年程存在した天守閣が焼失し、元和6年(1620本丸の火災では、焼失した天守閣の代わりに造られた“三階櫓”が焼失したと云われています。しかし、何時の時代に再建されたか分からないまま、慶長創建の形式を残した“三階櫓”は、宝暦9年(1759)に焼失するまで百数十年、本丸に聳えていたと云われています。)

 

 

(三階櫓図・金沢城調査パンフより)

 

寛永の大火は、寛永8(1631)414日巳の刻(1631515日午前10時)頃、火元は法船寺門前の民家から南西の風(フエーン現象)に煽られ法船寺門前(犀川橋爪・旧古寺町角)から法船寺薬師堂、庫裏→河原町長九郎左衛門・山崎長門仙石町堂形(現しいのき迎賓館)→辰巳櫓(金沢城本丸)→田井口(現賢坂辻)→金屋町を焼き、鎮火したのは翌午前10時。焼失件数は1000軒。三壺記「御堂形米共うこけしてけぶりのにほい」とあり、当時“堂形は米の焦げた匂い”がしたらしい。(平成15年の発掘で焦げた米が出たと聞きます。)

 

 

(能舞台の松の絵・県立能楽堂)

 

三壺記によると、本丸が焼失する一ヶ月前の、寛永8年(16313の月3日、高徳院殿(前田利家公)の大法会が宝円寺で執り行われ、310日に二の丸能舞台能興行が家中の諸士並びに僧衆等へ見物を命じています。その翌月414日に法船寺門前の出火で、燃えたのか壊したのか定かではありませんが、以前から二の丸に能舞台が建てられて居たことは確かです。何時からそこに有ったのかはわかりませんが、能を嗜み、太閤秀吉と徳川内府加賀大納言の三人狂言も行ったという藩祖利家公の頃から有ったのかと思うと、想像も膨らみ何か

うれしくなってきます。

 

(今の二の丸・右本丸付段)

 

藩祖利家公は、太閤秀吉の好みもあり、自ら申楽(さるがく)を舞い、謡曲を創り、金沢城中にも舞台を建て、在国の時には城中で稽古能をしたという。夜話録に2代利長公、3代利常公も幸若舞を好みと有り、申楽(さるがく)のことは書かれていませんが、二の丸の能舞台は、おそらく国初以来、利家公の思し召しで本丸より離れて二の丸能舞台が置かれ、寛永8年(1631)の本丸の火災後、二の丸を御殿と定め造営にあたり、御殿の続きに能舞台を建てられモノと思われます。また、蘭山私記には、能舞台松の絵利家公御物数寄より起れり、と有り。今は殆どが松を描いているが、伏見の太閤御成りの節、舞台に松を書いたのが初めで、その頃、江戸城の舞台の絵は椿だったと伝えられています。

 

(蘭山私記:四百石の加賀藩士加藤惟寅の著述で、加藤惟寅は綱紀公以下七公に歴任し、天明2年秋歿、82歳。)

 

金沢城二の丸に存在した二の丸御殿は、約240年間に渡り、藩主の住まいや政務の場として金沢城の中枢を占めました。4000(1,ha)を超える敷地に建てられた二の丸御殿、宝暦、文化大火2度の火災による焼失や再建など姿を変えながらも幕末、維新期まで御殿としての機能を持ち続けていましたが、維新後は陸軍の施設となり明治14年(1881)兵士の不始末により全焼し面影は失われました。

 

(今の二の丸)

(今の二の丸・発掘調査中)

 

慶長から元和の頃は、城内に有力な家臣の屋敷が並んでいまいした。二の丸は慶長10(1605)頃まで、山崎長門(1万7千石)の屋敷が有り、その後、芳春院丸と呼ばれていました。芳春院とは、初代藩主利家公の正妻、お松の方で二の丸の一角に隠居所があったものと思われます。芳春院は元和3年(1617)に71歳で亡くなりますが、その後、3代藩主利常公は、二の丸に藩庁でもある二の丸御殿を整備し、表向、藩主の邸宅である中奥、藩主夫人の住まい奥向に分け、その面積は時代によって変わりますが、約3000を超えていたそうです。

 

 

(慶長期の二の丸図・横山方子様蔵)

 

左から玄関、虎の間、御広間(竹の間)と連なり、御広間の下に能舞台、右上に黒書院(柳の間)となり、その西側が大台所となっています。黒書院の右下に檜垣の間、その下に白書院がありました。二の丸御殿はその後、宝暦9年(1759410日の宝暦の大火御殿の他、本丸、三の丸、新丸など主要部分が全焼。幕府から5万両を借金し、宝暦10年(17608月幕府から再建許可を得、宝暦11年(1761)再建事業が始まりますが、文化2年(1803111日土橋門造営完成まで34年間、10代重教公・11代治脩公・12代斉広公の3代の渡り3期50数回の普請が行われ、文化5年(1808)115日、完全再建の途上でまたも焼失します。

 

(現在の二の丸)

 

宝暦の大火は、宝暦9(1756)410日申上刻(175656日午後3時)頃、藩政期最大の大火で、出火元は、六斗の広見から数10間先の鶴来街道沿い西側、玉龍寺の塔頭舜昌寺でした。火災は南西風に炎はあおられ犀川を越えて城下各地に飛び火し、さらに浅野川も越えても燃え続け、金沢城をはじめ城下の大部分を焼け尽くし、翌11日午前10時頃に鎮火した。城下の焼失家屋は10,508(内 4,150軒武家屋敷、4775軒町家、99軒寺社、1,506軒寺社門前の百姓屋、23軒毀家)で外に土蔵283棟、橋梁29、番所27、木戸61の焼失があり、焼死者26人という空前の大火でした。この際、前にも書き重複を承知で、財政難の加賀藩では応急策として幕府から5万両を借入れて救済につとめています。

 

拙ブログ

六斗の広見の宝暦の大火

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12041889660.html

 

(文化の大火後・北國新聞より)

 

文化5年(1808)の文化の大火で再び消失し、二年後の文化7年(1810)に再建されます。

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢古蹟志二編」森田柿園 金沢文化協会 昭和8年発行・「よみがえる金沢城」石川県教育委員会発行 北國新聞社発売 平成183月発行・「平成16年度城と庭の探求講座「金沢城大学」レジュメほか

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles