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天下の書府➁5代藩主綱紀公が万金を投じた書物蒐集

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【加賀藩・金澤】

加賀藩が「天下の書府」と云われるようになったのは!?“書府”を辞書で調べると「書物を納めておく蔵」とあり、今の図書館ということになりますが、確か、昔、見た絵図か書籍の中のイラストで尾山神社のところに幾つかの書庫が描かれていた記憶が浮かんできます。書物の蒐集を始めたのは5代藩主前田綱紀公で、襲封後、数人の書物奉行を置き蒐集作業を行っています。

 

(金沢城石川門)

 

(書物奉行は、書物調奉行とも書物才覚奉行と称し、各地に派遣され皇居、公卿、幕府、大名はじめ古社寺、名家、蔵書家が収蔵する和書清や朝鮮、オランダ外国書、刊本・写本・古筆・絵巻物・令状・古書簡などの所在を調査し、その表題、内容を詳細に記し、時には早飛脚をもって書物奉行に届け、必要な書物は万金を投じて購入し、購入不可のものは書写し、無用、無価値のものは所有者に返却したという。)

 

(金沢城石川門)

 

借用した書籍・文書は、初めは木下順庵、室鳩巣の師弟に一任して購入あるいは書写させていたが、後に綱紀公自らこれにあたり、多忙な折は儒臣や書物奉行に考証させ、考証を終えた書物・文書には序、跋を付けて書庫に納めています。綱紀公は、治世79年間で没する数日前まで書物の蒐集考証明け暮れたと云われています。

 

(前田綱紀公)

 

伝説によると、当時、前田家が書籍を収集していた事はかなり有名で、水戸藩主水戸の徳川光圀(黄門さん)から「なんでそんなに本を集めているのだ」と聞かれ、綱紀公は「書物がなければ何も出来なから」と答え、平松中納言が「日本のために書物求めておられることは結構なことです」と述べると、綱紀公は、「書物を集めているのは、別にこれといった理由がありません」。西三条家の蔵書について書写の交渉した際、綱紀公「写しておけば読みたい時、すぐ間にあうから」と述べています。以上のように綱紀公図書蒐集意図は加賀藩として皇族、公卿、将軍、大名、学者に必要な時に、随時利用できる一大書庫になっていたという。その意図は、今も目黒区駒場にある公益法人前田育徳財団が維持管理する「尊経閣文庫」に受け繋がれています。)

 

拙ブログ

公益法人前田育徳財団①設立まで

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12156443337.html

 

 

(新井白石)

 

初めて「加賀は天下の書府」と云ったのは新井白石!!皮肉を込めて!?

実は、初めに新井白石「加賀は天下の書府」と言わせたのは、当時、前田家に仕えていた室鳩巣が江戸にいる白石に、ある本を貸してくれと依頼白石はその本を送り、添えた手紙の中で送った本はきっと役に立つと思うが、加賀は天下の書府と呼ばれる程、多くの本があるはずなのにと、皮肉とも取れる事が書いてあったという。当時、白石は経済的に困っていたそうで、加賀で恵まれていた室鳩巣の事を羨ましく思っていたのかも・・・。

 

(後に6代将軍徳川家宣侍講になる朱子学者の新井白石室鳩巣に送った手紙の内容には、「貴国(加賀)は天下の書府に候へば、定而詩話詩評如きは計量車載と存候得は聖学の御余暇に御□覧候て・・・」とあり、訳すと「加賀の国は「天下の書府」だから詩やその評論だけでも車に乗せる程沢山あると思いますが、」いう意味で、後に続く言葉は「ご勉強の余暇にでも見て頂ければ、お役に立つところもあるかと思います。お教えていただけるところがあればお願い申し上げます。再びご質問いただいた点につき不勉強な点ばかりにてお許し下されば今後も宜しくお願いいます」というものです。)

 

(室鳩巣)

 

新井白石室鳩巣は、木下順庵門下で互いに秀才と云われ、行き来するほど仲が良かったと云われていますが、当時、加賀藩5代藩主綱紀公に、師木下順庵と共に室鳩巣は加賀藩に仕えています。

 

拙ブロブ

長町⑧長町3丁目の旧長町78番丁は村井家の家中町

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12561991245.html

 

貨幣は国家が造りもの・・・➁荻原重秀と新井白石

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12598816852.html

 

(木下順庵)

 

木下 順庵(きのした じゅんあん)

江戸時代前期の儒学者は京都錦小路の出身で、名は貞幹、字は直夫、通称は平之允、号は順庵・錦里・敏慎斎・薔薇洞。私諡を恭靖と言う。元和7年(162164日生~元禄11年(16991223日歿。幼少より神童と称され、僧天海に鬼才を見込まれて法嗣を望まれるが、藤原惺窩の弟子松永尺五に師事し、儒学の勉学に勤しみ、柳生宗矩に従って一時江戸に出たこともあるが、帰洛後、加賀藩主前田利常公に仕えます。天和2年(1682)、江戸幕府の儒官となり、5代将軍徳川綱吉の侍講をつとめ、その間、「武徳大成記」をはじめとした幕府の編纂事業にたずさわり、林鳳岡や林門の儒家たちとも交流している。朱子学に基本を置くが、古学にも傾倒します。

 

教育者としても知られ、木門十哲と呼ばれる優れた人材を輩出し、元禄6年(1693)に徳川綱豊(後の徳川家宣)の使者高力忠弘が、甲府徳川家のお抱え儒学者を探しに来た際、順庵は門人の新井白石を推薦しています。

 

 木門十哲

新井白石:将軍徳川家宣に仕え、幕政に参与した。

室鳩巣:加賀前田家に仕え、のち将軍徳川吉宗の侍講となる。

雨森芳洲:対馬藩に仕えて文教・外交に活躍した。

祇園南海:紀伊藩の儒者。

榊原篁洲:紀伊藩の儒者。

南部南山(なんぶなんざん):富山藩に仕えた。

松浦霞沼(まつうらかしょう):雨森芳洲とともに対馬藩に仕えた。

三宅観瀾:徳川光圀に招かれて、「大日本史」の編纂に協力した。

服部寛斎(はっとりかんさい):甲斐府中藩主徳川綱豊(のちの将軍家宣)の侍講となる。

向井滄洲(むかいそうしゅう、向井三省とも)

 

つづく

 

参考文献:「加賀百万石」田中喜男著 株式会社教育社 19804月発行・「三壺聞書」山田四郎右衛門著(校訂者日置謙)石川県図書館協会 昭和611月発行・オンライン百科事典(Wikipedia:ウィキペディア)など

 


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