【金沢→江戸】
北国下街道の宿場は、主に核になる村と近隣の2,3の村とで構成されていました。一般的には宿場は、本陣、脇本陣、旅籠、そして煮売家(にうりや・飲食店)、茶屋、土産物屋のお買上げ代金や住民が荷物運びの人足に出れば駄賃収入や草履代などがあり、北国下街道筋の宿場では加賀藩や街道を通る大名行列が落とすお金で大いに潤い、それが年に一度のボーナスのようなものだけに、大名行列の宿泊が別の宿場に変更されることにでもなれば、宿場の収入にも大きな影響をこうむり死活問題になります。
(宝暦7年(1757)11代加賀藩主重教公の時、それまでの糸魚川宿の止宿が、隣の宿場能生宿に変更され、慌てた糸魚川宿は、本陣の小林九郎左衛門を交渉役に選び38里(約150km)の道を金沢城まで止宿を糸魚川宿に戻すため陳情に赴いたという記録があるそうです。また、元禄の頃、熊谷宿の記録には「加賀のお殿様の通行によって、越後、信濃は勿論、上野、武蔵の宿場もお陰をこうむっていて、益々のご繁栄を願っている云々・・・」とあり、関東の宿場でも支払いもキレイで律儀な加賀の殿様のために奔走した様子が記されています。)
宿場の住民は、行列を待つ心得として落ちている馬糞などを拾い、地ならしをし、水溜まりには土を盛り、軒などに吊してある草履を外し、戸のない雪隠(トイレ)などには残らず目隠しの簾子(スノコ)を掛け、天気の良い日は街道に水を打って迎えたという。加賀藩領内の加賀や越中の本陣では、前庭に箒目(ほうきめ)を入れ、門の両側に幅60cm位、高さ45cm程の富士山の形の盛砂を作り、飾り桶などを出してお迎えしています。
また、臼を持出し、おめでたい歌にあわせて、行列が付く前に餅つきの練習などで景気づけ、いよいよ行列が近づくと本式に紅白の餅をつき、出来たての餅は、御供の人に配った本陣もあったと云われています。領内の宿場では、出入り口に蹲踞場が設けられ、本陣・問屋の亭主・年寄・帳付・人馬指と云った宿役人は、その後、行列の案内役を勤めて一緒に宿場に入ってきました。
(蹲踞(そんきょ)=大名など貴人が通行するとき、両ひざを折ってうずくまり、頭を垂れて行う礼(土下座・下に~下に~)。また、大名行列で面前を過ぎるとき、ひざと手を座につけて会釈すること。)
大名行列は江戸後期になると、経費節約のため「暮れ六ツ(午後6時頃)泊りの七ツ(夜明け前、厳密には季節によって違う)立ち」になり、旅籠では寝るだけ、朝早く立っています。加賀藩の行列も早立ちで、意外と夜も歩いています。
北国下街道筋では、東海道や中山道と違い、宿泊を専業にする旅籠で、一軒あたりの収容人数は、詰めて20人程であったと思われ、さらに民宿となれば、宿泊専業の旅籠に比べれば少人数であったと思われます。信濃の柏原宿では、旅籠が23軒で、宿場の旅籠屋の最大の間口は24間で本陣でも17間。他はいずれも狭い家が多く、旅籠屋23軒の座敷に総坪数は82坪。1坪に2人が寝るとしても150人程度しか座敷に泊まることは出来なく、後は板敷きの間か縁側か民宿。それでも柏原宿では2,000人は無理なので寺院や隣村の農家に泊まったという。
(万延元年(1860)加賀藩13代斉泰公の帰国に際し、2,272人の糸魚川宿での宿泊では、152軒の分宿し平均1軒当り15人。供家老家中142人が四十物屋(アイモノヤ・塩干物を扱う店)に止宿。その状況は、現在に夏山の山小屋のように混雑していたと伝えられています。また、慶応2年(1866)加賀藩14代慶寧公の一行2,600人。糸魚川宿に泊まった例では、糸魚川宿に泊まりきれず、寺島村64人、上刈村32人、押上村32人が分宿し、その他、薫徳寺18人、正覚寺24人、徳正寺21人、直指院13人、径王寺9人、常誓寺8人と寺院に民宿しとあります。)
つづく
参考文献:「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」忠田敏男著 株式会社平凡社 1993年4月発行 実録参勤交代(別冊宝島2395号)宝島社 2015年10月発行(写真は石川県立歴史博物館・金沢市立玉川図書館・Wikipediaなど)