【金沢→江戸】
参勤のお目見えにあたり、お礼の言葉とともに家臣である大名から将軍に献上品が奉呈されます。藩政初期は献上金品の内容は参勤の都度、老中の指示を仰いで決められていたが、後には、ご祝儀や引出物など贈答の相場に悩ませられた時を経て、明暦3年(1657)になると幕府は献上品に関して決まりが明文化され、数量や作法などを細々と定めて諸大名に義務化します。参勤や交代、式日ごとの献上品を贈る事もこの時にはっきり定められ、家格や将軍家との親疎などによって家ごとの金額や品目が決定さらました。
(大名ごとの献上品目は「武鑑」にも記され世間にも周知されたことから、その多寡は大名家の格式が世間に知られることになります。ちなみに天保期の加賀藩前田家は、譜代尾張徳川家に次いで薩摩島津家と並び銀50枚・巻物20巻などを贈ります。しかし、献上した品目に対し将軍から倍近くの拝領が下され、トータルでみれば将軍家の持ち出しとなり、そのため大名には痛みの少ない制度でした。こうした画一的な献上品とともに大名家では地域ならでは特産品もよく献上され、加賀藩では、御細工所で制作された金工や蒔絵など名産品が贈られていたものと思われます。「武鑑」:江戸時代に出版された大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを記した年鑑形式の紳士録。)
ご当地の献上品は大名の愛国心に火を付け、将軍のもとに諸国の名物が山積みになり、この献上品は将軍ひとりのものというより江戸城全体の進物という意味があり、城内では身分や役職にあわせて献上品が払い下げられ、各人に分け与えられました。これは将軍だけでなく、世継ぎや大奥向き、それに老中や諸役人への進物も欠かせないものでした。前田家でも薩摩の躑躅(つつじ)を拝領しています。
(この武家の贈答文化は、江戸に「献残屋(けんざんや)」という職業を生みます。現在のリサイクル屋のような文字通り献上品の残り物を扱う商売です。余り物の献上品や贈答品を業者に買い取らせ市中に流されました。リサイクルしやすい調度品や乾物が多かったそうですが、大名達が江戸に持ち寄ったご当地名物が庶民の間に流れ知名度を高めることになります。)
加賀藩では、老中や側用人への献上品としてわざわざ特性の大判(進物判金)まで造らせています。それも1枚の価値が22,5両というとんでもない特注品で、これは将軍への贈り物とは違い返礼がないから加賀藩の懐を直撃し、この時前田家の献上は、将軍用が銀34貫に対し、老中、御側用人など側近用が大判(進物判金)100枚銀135貫(2,250両)にもなったという。
(特性の大判(進物判金)は、普通大判は10両で、小判の10枚分ですが、実際は贈答用で小判(金)10枚ではなく、銀10枚(銀430匁=7,2両)。金では22,5両(0,5両は金2分)判金100枚は、2,250両になり、1両10万円で換算すると2億2500万円に相当します。)
(大判)
古川柳に
”大判は 財布へ入る ものでなし”
“大判は とらず盗人は 小判とる”
当時、大判は両替商もその筋へ届け出なければならない不便極まりないもので、盗人も10両の性格を知っていたのです。加賀藩ではその贈答用の10両でも不足で特製品の特性の大判(進物判金)を鋳造していたわけです。
(白銀一枚)
(加賀藩では、藩政期銀経済圏であったので、功労金や報償を与える時は白銀何枚・時服を遣わしています。白銀は銀43匁を紙に包み用いられていました。)
(小判)
加賀藩では、12代斉広公が文化9年(1812)に、参勤の時期は「夏4月中」と規定されていましたが、斉広公が向こう3年間だけ9月の参勤を願い出たが、この申し出に応じて、10月27日、老中青山下野守忠裕、土井大炊守利和、牧野備前守忠精、松平伊豆守信明の4名の連署名で「参勤の時節御用捨あそばせ候。来年九月中参勤しかるべく由・・・」と許可が下りました。加賀藩はこの願い出に対して老中へ包んだ謝礼が一人に50両と推定され、老中は復数の人数になっており、月の交代で、文化9年(1812)では、4人の老中がいたので、老中に対してだけでも、200両(2,000万円)の謝礼を遣ったことになります。
つづく
参考文献:「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」忠田敏男著 株式会社平凡社 1993年4月発行 実録参勤交代(別冊宝島2395号)宝島社 2015年10月発行(写真は石川県立歴史博物館・金沢市立玉川図書館・Wikipediaなど)