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加賀藩の大名行列⑧一日で終わらない超長大の行列!!

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【金沢→江戸】

北国下街道の信州柏原宿に住んでいた俳諧師小林一茶“跡供は 霞ひきけり 加賀守”と詠んだという一句が残されているように、この句からも加賀藩の参勤交代は、とてつもない大行列だったと云うことが窺えます。

 

 

 

時代によっては差が有るものの、5代藩主綱紀公時代の4,000人の行列では、単純に推測すると、2列縦隊、前後2m間隔で歩いたとして、4kmの長さになり、実際に行列は、本体の数km先を歩く、行列外の鉄砲・弓・長柄の各々一部隊を編成したお先三品(町人の土下座なし)お先牽馬三疋以後が旗本を中心に藩主を守る親衛本隊(加賀藩の場合は450人程度)そして供家老が大将になって攻撃を主力にする200人余りとの2に分かれ、一日後に従うもう一人の家老の一団というゆっくりした編成だったそうで、推測の総延長(約4km)をはるかに長かったものと思われます。

 

 

 

小林 一茶は江戸時代中期の俳諧師で、信濃国柏原で中農の子として生まれ、15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、一茶調と呼ばれるユーモアあふれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人で、我と来て 遊べや親の ない雀“や” やせ蛙 負けるな一茶 これにあり“ ”づぶ濡れの 大名を見る 炬燵かな” “やれ打つな 蝿が手をすり 足をする“など、他の有名俳諧師と一線を画したユニークな句を残しています。)

 

 

     一茶

他にも、藩主が代替わりして初めて国許(金沢)を訪れる「初入部」の行列は、ご祝儀相場なのか増員されていて、6代藩主𠮷徳公3,00012代藩主斉広公3,500という記録があるそうで、幕末頃には2,000程度に落ち着いています。

 

大名が人数を絞りきれないのには、家臣の従者である陪臣の影響が大きく一万石位の家臣でも従者約2009疋。その頃の数万石の大名の行列は150人~300人規模だったことから、加賀藩の大名行列は、大名規模の家臣の行列が幾つも入っている状態で、人数自然に膨大になってしまったこともあるが、現実問題として、この時代は人と馬だけで旅をしたので、荷物運搬だけでもかなりの人数が必要で、を増やせば面倒をみる人を増さなければならないし、雨に備えて合羽を運ぶ人手も必要で、大大名の面子だけではなく、輸送と云う現実問題があり人数らせなかったらしい。)

 

 

 

幕末、加賀藩の大名行列の実態は、文政10年(1827)10月の交代の総勢は1,900許り、うちで加賀藩士は10にも満たない185に過ぎず、家臣185の又者(陪臣)が約830人、そして、臨時雇用の人足が686で全体の35をも占めていました。それは、国許(金沢)から江戸まで荷物の運搬を行う「通日雇(とおしひやとい)と呼ばれ人足で、大名行列は彼らを無くして成り立たなくなっていました。

 

藩政期初期参勤道中荷物の運搬には宿から宿へのリレー式に荷を運ぶ宿継人足が使われていて、彼らは現地調達の人足で街道の交通量増加に比例して供給が追いつかなくなり、かつリレー手間時間のロスで人手の増える分、大名家にとって悩みの種になります。そこで需要が高まったのが、金沢から江戸まで交代なしで荷物を請け負う「通日雇が選ばれ、金沢にも家臣団に出入りする斡旋問屋が請け負います。)

 

 

 

通日雇(とおしひやとい)は、日傭頭が仕切り、現在で云うところの人材派遣業のような仕事で、幕末、上今町の「八田屋」は加賀藩の横山山城守、前田美作守や大小藩士数10家の参勤交代などに必要な肉体労働者(金沢の町絵図では“かせき”と書かれています)の派遣を業としていました。「八田屋」は初め浅野町にあり、文化8年(1811)頃には下今町に店舗を構えていますが、文政3年(1820)に尾張町に移り、日傭頭の八田屋では後に酒造業を営み、後に典舗(質屋)をしていたという。

 

つづく

 

参考文献:「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」忠田敏男著 株式会社平凡社 19934発行 実録参勤交代(別冊宝島2395号)宝島社 201510月発行(写真は石川県立歴史博物館・金沢市立玉川図書館など)

 


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