【金沢→江戸】
加賀藩が、参勤で93回中91回も通った加賀・越中・越後・信濃追分までの北国下街道には、川幅およそ5m以上の河川が73もあり、そのうち橋が架かっているは43の河川で残っている30の河川には橋が架かっていなかったので、徒渡り又は船で渡るか、仮舟橋を架けて越さなければならなかったのです。
(東海道では、渡船で渡る河川は天竜川を含め4河川、徒渡の河川は大井川を含め4河川、そして普段は仮橋で水が増えると徒渡の瀬戸川があり、残りの河川には橋が架かっていました。東海道は幕府の道中奉行の所管で、北国下街道の河川では、各藩に維持・管理が任せられていて5m以上の河川の架橋率は低かった。因みに架橋率加賀は7橋で100%、越中は27河川のうち11橋で41%、越後は26河川で16橋の61%、信濃は13河川で9橋と69%と全部で56%と、旅人の便を図るために橋を架けることはなく、むしろ橋を架けないで、川止めになれば、近くの宿場が潤ったという。)
北国下街道の城下町高田榊原藩では、奥羽へ行く道と分岐する起点の越後の今町(直江津)を、高田城下の繁栄を図るため、荒川に架かっていた応化橋を撤去し、旅人を必ず高田迂回で柏崎の方へ通し、越後国の北国下街道の起点は直江津でなく、高田城下になっています。
(高田城)
信濃の架橋率69%と比較的高いのは、北国下街道が丘陵地帯を通っているため、河川は深い谷川になり、崖が高いので、領民の生活に不便がないように、生活橋として本来の目的で架けられていたものと思われます。
藩政期は、各藩とも河川を軍事防衛上に利用するため、橋を架けない例が多く、加賀藩も藩防衛と治安維持のため、越中(自国)と越後の境の境宿に加賀藩の番所を設け、同じく河川には軍事的な役割を担わせ、そのためか?越中の架橋率41%と非常に低く、藩の防波堤の役目を担っていたようです。
(富山の城下から越中の国境まで、黒部川の上流の愛本川に架かる愛本刎橋が唯一の橋で、常願寺川・早月川・片貝川・布施川・小川とどの河川にも橋を架けていない、しかし、金沢から高岡・富山までを結ぶ、呉西(富西)の北国下街道に100%橋が架かっていて呉東(富東)の架橋率は0%に近い。)
拙ブログ
加賀藩の大名行列⑤北国下街道と中山道120里ばかり(約450km)
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12642573589.html
徒渡り
北国下街道のような流れのはやい浅瀬が多い諸河川では、乾季には徒渡りが出来たので、旅人は川原で黙祷を捧げて人の頭位の石を探し、身体の体重を重くしヨチヨチと渡ったという。越中の境川などでは、竹越えと云って水量の少ない季節には、長さ3~4間程の竹竿に旅人をつかませ、先頭の川越人足が瀬踏みしながら、流れを斜めに渡ったそうです。これを進歩させたのが、越後姫川の渡しに常設されていた繰綱渡しと考えられます。
(徒渡りは”人馬河渡り、まま、怪我こそ有り、大困難いたし候”と記録があるように、河原の底の丸石を踏みはずし、槍を流した者もいたかもしれない・・・・。)
舟渡り
橋も仮橋も架かっていないところでは、舟渡しか徒渡りで越えました。片貝川・姫川・犀川等の大河川で、雨模様の気遣われる時は、夜中をいとわず渡り越しています。夜の川越のときは両岸の大提灯を灯して事故防止を図りました。狭い渡し舟で越すには、2000人の人と馬200疋以上を渡すのですから時間も掛かり、その混雑は図りしれません。概ね、渡し船は12~3隻ほど借り受け、姫川では人馬相乗り、中山道の戸田川では馬は茶船、人は高瀬船で渡ったと云う記録があります。
仮舟橋
舟を一列に並べ固定して、その上に板を渡したのが舟橋で、川幅が少々広くても、水の深い川でも比較的手軽に架けることが出来、取り外しの容易だったが、その舟橋を架けたのは主に加賀藩領の越中の河川を渡る時で、越後・信濃の他領の河川では舟橋を架けた例は極めて少なかった。そして、橋を簡単に架けられることが出来る反面、4、5日前に架けたのが、藩主が通る当日に押し流されるという事が度々起こったそうです。
(参勤交代の道中の川越は、藩の財政が年ごとに苦しくなっていく現実のなかで、経費節減のため、これまでの仮橋を架けていた川は舟渡しに、舟渡りで越えていた川は徒渡りで越えるような方針にかったこともありました。)
つづく
参考文献:「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」忠田敏男著 株式会社平凡社 1993年4月発行 (写真は石川県立歴史博物館・金沢市立玉川図書館より)