【金沢→江戸】
加賀藩では普通の年で2000人から多い年には4000人と多くのお供を連れて、10数日も要する大名行列でしたが、いったいいくらのお金が掛かったのでしょうか?過去の史料から調べたものを少しまとめて見ることにします。
(加賀藩の大名行列を構成する人員は、藩政初期3000人~4000人から2000人台に減少していますが、軍役としての人数の規定や大大名としての面子、何と云っても荷物を運ばなければならないと云うことから絶対人数が必要から一定数以上の減員は困難でした。)
旅籠賃と馬の宿泊代
文化元年(1818)12代斉広公が帰国に際して糸魚川宿での“旅籠賃”の表にし、今の金銭感覚の置き換えることにします。
1 | 銭32貫800文 上 200文一夜分(164人)主人分 | 約 820,000円 |
2 | 銭93貫60文 中 180文(517人)中間、若党、槍持等 | 約 2,336,000円 |
3 | 銭214貫880文 下 160文(1343人)小者、通し人足 | 約5,372,000円 |
4 | 銭17貫文 500文(34疋) | 約 425,000円 |
5 | 銭25貫200文 本陣 280文(90人推定)藩主付の人 | 約 630,000円 |
6 | 銭10貫文 本陣 馬500文(20疋) | 約 250,000円 |
計 | 銭392貫940文 (2114人と馬54疋) | 約 10,375,000円 |
| 「糸魚川市史」より | (1両=4000文=10万円) |
単純に12泊に置き換えると推定約1億2450万円になり、他にお土産品、献上品、途中の買い足しや雑費などを考慮すると約1億5000万円が推定されます。
(加賀藩最高額と云われる帰国(交代)は、文化11年(1814)12代斉広公が東海道経由で帰国した時に鎌倉・江ノ島・箱根温泉を巡るなど文字通り大名旅行で銀1100貫(約2億7500万円)を費やしたそうです。)
この頃(文化文政期)に、加賀藩が払った旅籠賃「上クラス・銭200文(現代感覚で5000円)」は他藩と比べると高かったようで、他藩では一泊銭160文で取り決めていた藩もあり、藩の役人が一人あたり4文を値切り、更に自分達10人分の宿泊代を只にさせ1人あたり140文にしたと云うところも有ったという。
(当時の一般人の北国街道筋の旅籠賃は、団体割引料金で銭120文ほどが相場で、高田のような城下町で銭164文、信濃の山村の宿場で銭146文も出せば、脇本陣クラスの上旅籠に宿泊出来たそうです。)
この例から見ても加賀藩の道中の旅籠・農家・寺など北国下街道で支払った「上」の払、銭200文は、団体扱いで、しかも,民宿並みにしては、破格に高い旅籠賃であったと云えます。
「参勤交代の総額の費用しらべ帳」
文化5年(1808)の御帰国御入用銀の明細が記載されています。その総額は銀332貫66匁8分8厘(現在の貨幣価値で約5億3千万円)になっています。
その内訳は
文化5年御帰国御入用銀 2月渡り 一、三貫目 御帰国御用荷物(認料請負銀) 一、六百両 御帰国御供小払渡り 四千五百切 拾五貫目 一、弐百五拾目 御帰国御供三十人組之者荷物廻り御差留町飛脚相渡候に付足銀 一、七百八拾三匁九分八厘 生駒伝七郎跡足軽御仕着代 一、八百六拾三匁五分 御供御歩江被下羽織代銀図り 一、弐両 割場御道中方御道具御買上品々代 一、弐切 六百弐拾五文 一、 三百四拾三両 御帰国御用買手方品々御買上物代中勘 一切 拾三両九分四厘 一、三百八拾壱匁八分 御供人之内奥付御歩横目等江渡り方 山崎小右衛門渡り 3月 (以下略)
〆 千四百四拾五両(金) 一万四百五拾三切(金) 八拾八貫九百六拾六匁三分八厘(銀) 六百弐拾五文(銭) 右四口 銀直 三百三拾弐貫四百六拾匁八分八厘(332貫460匁8分8厘) (「御帰国御入用しらべ帳」) |
(大名行列では、江戸は金遣いで、上方・西国、加賀藩も含め日本海側では銀遣い、小口の買い物は銭なので面倒な3貨(金・銀・銭)を持参しなければならない。金遣いの地域で川止めが起こり金貨不足するとか、銀勘定の地域で銀貨が足りなくなるなど、また、日用の買い物は銭で支払うのでの、持参するだけで大層な荷物になりました。)
いずれにしても、加賀藩では「参勤御用銀」の示す通り、現在の金額に換算すると軽く5億円以上はかかっています。参勤交代により藩の財政が厳しくなるのは小藩も大藩も変わりなく、全国どの大名も参勤交代の道中費用を工面するのに四苦八苦でした。
江戸初期、丹波の綾部藩2万石の別府豊後守吉治は、数年病気と称し、参勤を怠っていたが、ある時、鷹野川で狩猟をしていたのが発覚し、寛永5年(1628)2月28日に改易され、代って同 10年に志摩鳥羽の九鬼守隆の子隆季が2万石を分与されてこの地へ入封した。
安永元年(1772)7月、譜代大名の出羽庄内藩の酒井忠勝は、初めてのお国入りで、福島まで来て旅費を使い果たし、国元へ金の工面を頼み、国元で苦労して金をかき集め、行列を再出発したという。その庄内藩ではいち早く元禄3年(1690)に家臣に「上げ米」の制度を始めているので、財政の逼迫は相当なものだったのでしょう。
仙台藩62万石の7代伊達重村(1756~1790)も帰国の際、日光街道の千住宿で旅費が尽き、そこから先は野営となり、食糧は自給自足、野鳥猟って食糧を補いにしようとし、禁止の鉄砲を連発し、幕府の役人に咎められたという。仙台藩は7代重村の時、借金60万860両と借米2万4200石(併せて現在貨幣価値約6300億円)もあり、そのため明和7年(1770)から諸経費を半分にし、行列の人数を3分の2に縮小しているが、60年後の天保7年(1836)には、さらに借金が70万両(約7000億円)に増えています。
P.S
加賀藩での11代治脩の時、旅費の工面がどうにも付かず万事休すになり、借銀を求めています。13代斉泰公の時、将軍家斉の21番目の女溶姫との縁談が持ち上がり、上使の老中水野出羽守忠成が父斉広公に「もし嫁取りの約束が整った時は、貴公の希することは、必ず叶えるであろう」と低姿勢で加賀藩の意向を質したのに対し斉広公は「幸い将軍の徳音に接し、加賀藩の参勤交代は、5年に1度に、やむない時は、2年の1度に改めて戴きたい」と述べていますが、水野は幕政の根元に触れる問題から将軍に伝えられなかったため斉広公の希望は叶えられなかった。
拙ブログ
12代藩主前田斉広公と竹沢御殿①②③④⑤
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11733078614.html
(斉広公は、文化15年(文政元)(1818)3月の帰国後、文政5年(1822)には幕府に隠居願いを申しで12歳の斉泰公に藩主の座を譲り、文政6年(1823)7月10日に卒去するまで、一度も江戸へは行かず国許で過ごしています。)
つづく
参考文献:「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」忠田敏男著 株式会社平凡社 1993年4月発行 (写真は石川県立歴史博物館より)