【金沢→江戸】
平成27年(2015)3月14日に長野から金沢まで240kmが延長になり北陸新幹線が開業し”かがやき”が、金沢から2時間28分で東京に着くようになりましたが、そのコースが藩政期参勤交代で加賀藩が江戸へ、227年間に渡り約2000人~4000人もの人々が往復181回、約12泊13日もかけて通った北国下街道と中山道とほぼ同じ距離だそうです。
北国下街道(金沢→津幡→石動→高岡→東岩瀬(富山)→滑川→魚津→三日市→入善→泊→境(加賀藩番所)→(親不知・子不知)→市振(関所)→青海→糸魚川→梶屋敷→能生→名立→中屋敷→高田→新井→柏原→牟礼→善光寺→丹波島→矢代→戸倉→上田→海野→小諸→信濃追分)と中山道(信濃追分→沓掛→軽井沢→(碓氷峠)→坂本→横川(関所)→松井田→安中→板鼻→高崎→倉賀野→新町→本庄→深谷→熊谷鴻巣→桶川→上尾→大宮→浦和→蕨→板橋→江戸)
泊付近で黒部川及びその支流の川の増水氾濫による通行止めを避ける為に扇の要部分にあたる扇頂部の愛本を経由する北陸街道上街道と扇端・扇央部を通る下街道に分かれます。
(金沢では、令和1年(219)3月から石川県ウォーキング協会がIWA東京2020応援プログラム「金沢~東京 参勤ウオーク」に参加者110人を集め、何回かに分けて現在も進行中だそうですが、参加した知人の話によると、令和2年7月の東京オリンピックまでに東京大学の赤門までと云うことでスタートしたのが、オリンピックがコロナ禍で延びて、このイベントも現在は倉賀野にも着いていないと云っていました。その話を聞くと10数年前、私が観光ボランティアガイドに加えて戴いた頃、ガイドの先輩達が、金沢から東京大学の赤門まで、歩きと電車で何回か繰り返し、赤門まで歩いて踏破した話を思い出し、当時、まだ足にも自信がありましたが同行出来ず、うらやましく思っていた事が思い出されます。)
拙ブログ
金沢に新幹線が来る・・・。
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11437063721.html
藩政期、金沢から江戸に向かう陸路では北国下街道(中山道経由)は最短であり、また利便が高かったコースで、上記の通り、金沢から北国下街道を津幡、高岡に抜け、魚津、親不知、糸魚川、高田を通って長野善光寺に経て、軽井沢、碓氷峠を越えて、信濃追分から中山道に合流して、天候や諸事情によって差はあるものの、約 480kmの行程を1 2泊 13日を歩いたという。単純に 13日間で平均すると、毎日、約37km進むことになり、この人数で山や谷を越え、途中越中、越後、信濃には暴れ河川や親不知、子不知の難所もあり、そのため大幅に道中が延長されたこともあり、いかに巨大な幕府の命とは云え227年間も代々続けていたことに驚愕します。
(下街道は全行程の四分の一の30里が前田家の所領で、裁量の自由な加賀・越中を通り、他のコースより距離的も短いと云う利点から上街道の福井藩や他藩を通るより気苦労も少なく、むしろ越後や信濃、上野、武蔵の諸藩は、前田家の通行に便宜を図ってくれ、また、街道筋の宿場には毎年多くの金銀を落としているので歓迎されていました。)
とは言え、江戸まで順調にいって12泊13日。日程は前もって老中に届け出て許可をもらっているので、簡単には変えられません。もし天候の関係や、洪水などで川止めになって遅れるようなことがあれば、すぐ報告を出さなければならない。また、先々の宿場では準備をしていて予定が狂うと都合が悪く、そして何より出費もかさむ事とになります。
(12泊13日参勤の宿場:一日目金沢→今石動(4里)二日目今石動→高岡(4里)三日目高岡→魚津(11里30町)四日目魚津→泊(8里4町)五日目泊→糸魚川(6里34町)六日目糸魚川→高田(12里18町)七日目高田→牟礼(12里34町)八日目牟礼→榊(10里18町)九日目榊→信濃追分(11里18町)十日目信濃追分→板鼻(10里7町)十一日目板鼻→熊谷(12里七町)十二日目熊谷→浦和(10里12町)浦和→江戸(5里28町))。江戸初期と末期を比較すると若干違いもあり、5代綱紀公は九泊や十泊の強行軍で、12代斉広公や13代斉泰公は十二泊が定着し、のんびり志向で軟弱になっています。最も日数がかかったのは、11代治脩公は、寛政10年の参勤で、越中の片貝川、信濃の犀川・千曲川の川止めに遭い18日19泊を要し、キャンセル料も支払っていると記録もあります。)
明治20年代に撮影されたとみられる愛本刎橋 黒部市歴史民俗資料館所蔵
P.S
北陸下街道には、江戸時代から明治時代に越中入善の三日市から泊間に山沿い通る浦山・愛本・船見のバイパスがあり、そこの架っていた日本3奇矯と云われた愛本刎橋は、5代綱紀公が寛文元年(1661)7月の19歳で初めて領国入りしたときに、難所、黒部四十八ヶ瀬を無事に越えて金沢に到着した後、家臣たちを集めて会議を開き、黒部川下流域の入膳宿がある北陸下街道を迂回する山沿いに新道を開いて黒部川に橋を渡して諸人の往来を容易にしようと相談します。家臣たちは、領地防衛の要害地に橋を架けることに反対したが、綱紀公がただ一人「国の安危は得失にあり。山河の険阻によるべきにあらず。」と主張してこれを断行したといわれています。
(泊付近で黒部川及びその支流の川の増水氾濫による通行止めを避ける為に扇の要部分にあたる扇頂部の愛本を経由する北陸街道上街道と扇端・扇央部を通る下街道に分かれます。)
(蛇足:石川県立歴史博物館に現存する寛政4年(1792)閏2月津田正身が描いた“兼六園蓮池庭之絵図額”に愛本橋に似た「愛本の橋うつし」が描かれています。)
つづく
参考文献:「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」忠田敏男著 株式会社平凡社 1993年4月発行・「加賀百万石と中山道の旅」忠田敏男著 新人物往来社 2007年8月発行・「江戸前期加賀前田家の参勤交代」藤井穣治著 石川自治と教育第694号 石川県自治と教育研究会 2016年1月発行 「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 2006年12月発行
写真は石川県立歴史博物館より