【江戸→金沢】
加賀の大名行列は5代藩主前田綱紀公の時代、行列の人数が4000人にもなったときも有ったと云われていますが、それ以降2000人~3500人ぐらいになります。ちなみに10万石大名で行列は300人位、1万石大名で50人ぐらいだったそうです。当時、加賀藩では約1000人の藩士が江戸に定住し家族を合わせると約4000人もいて、綱紀公が在府中には約8000人が江戸にいたことになります。加賀藩の江戸での屋敷地は、総面積32万8000坪(約108ha)もあり、現在云うところの東京ドームの約23個分で、江戸城とほぼ同じ面積を所有していました。
綱紀公は、正保2年(1645)4月、1歳と5ヶ月で家督相続しますが、諸大名の「江戸置邸妻子収容の法」により正室の子は17歳まで国元に帰れない規則があり、寛文元年(1661)7月満年齢17歳8ヶ月の年まで襲封がなく、その間、祖父の利常公が代わって死亡する元治元年(1658)まで14年間参勤交代をつとめています。
(綱紀公)
綱紀公に暇(交代)が出て、寛文2年(1662)9月に初めてお国入り、翌寛文3年5月まで在国(金沢滞在)し金沢を発ちます。その後、4月に暇(交代)、翌4月に参勤(江戸へ)と、出発時期の違いはあるものの一年置きに、交代は30回、参勤も30回と、歴代藩主の中で一番多く行われています。
(加賀藩の参勤交代は、3代将軍家光が寛永12年(1635)の「武家諸法度(寛永令)」法制化以後、文久2年(1862)まで227年間で、参勤(金沢発)の93回、交代(江戸発)と97回実施され、その間、北国街道(下街道)を通るルートが181回、北国街道(上街道→中山道)が5回、北国街道(上街道→中山道→東海道)が4回、合計190回の参勤交代が行われています。)
北国街道下街道(高岡、親不知、高田、善光寺、中山道碓氷峠経由)約480km、 13~15日(181回) |
北国街道上街道(福井、栃ノ木峠、関ヶ原、中山道、碓氷峠経由)約600km、 20日前後 (5回) |
北国街道上街道(福井、栃ノ木峠、関ヶ原、名古屋、東海道経由) 約660km、 22日前後 (4回) |
上記の通り加賀藩の参勤交代は、北国下街道が圧倒的に多く、上街道から中山道や東海道を通ったのは、僅か9回(5代綱紀公3回・8代重煕公1回・12代斉広公1回・13代斉泰公3回)しかも交代(帰国)です。その内6回の主な理由は親不知の崖崩れで道路が決壊、及び信濃路に起きた地震とその後に続く群発地震などの災害の危険を避けるためでしたが、3回は綱紀公の寛文4年5月、享保2年9月と享保5年4月の暇(交代)で、寛文4年の理由は不明ですが、後の2回は、京の娘と外孫に会うためだったと云われています。
(京の外孫とは、綱紀公の6女利子(直姫・栄君まさぎみ)が霊元天皇の外孫の二条𠮷忠(後の関白)に嫁いで、その2人の孫女の一人が桜町天皇の皇后になり、最後の女帝後桜町天皇の母にあたり、綱紀公は後桜町天皇の外曾祖父です。)
逸話:享保2年(1717)9月17日の交代
綱紀公は、二条吉忠に嫁いだ6女利子(直姫・栄君)に会うため大津経由で京に入ることを計画し、中山道を通ることを決めると、難所山道が多い木曽路を通るので、藩士に杖を突く事が許可していますが、これまで通ったことのない中山道では全く旅籠の予約も入れず請書もとらず行き辺りばったりの道中で、今の滋賀の美江寺の宿では、宿場の中の家が59軒で、専業の宿屋がないらしく、後々も貧宿と云われていますが、そこに約2000人もの行列を受け入れざるを獲なくなります。当時の宿泊状況は、例えば家老の前田土佐守家では家中192人に馬9疋の直臣の家中を一塊に宿泊させ、人足や籠担ぎは縁や土間に寝たという、他の旅人は野宿しかなく、古川柳のある“三宿ほど 旅人 寝かせぬ 加賀の守”を実感されます。そこで急遽、倍の規模の隣の赤坂宿に変更したとありますが、それにしても食事づくりや朝のトイレや布団はどうしたのでしょうかネ・・・・?旧暦9月23日、初雪が3~4寸(10~12cm)も積もり寒気も強く、京に行くのも帰国も取り止めになり幕府に在府の願いを提出し江戸で越年します。
逸話:享保5年(1720)4月2日の交代
この時も、前回同様二条吉忠に嫁いだ6女利子(直姫・栄君)と2人の外孫に会うため京に立ち寄るため中山道経由で帰途につきます。4月12日には、中山道屈指の大河川の川渡り長良川の“合度の渡し”の渡船が御用金で修理していましたが、なんとか川越をし、昨日から雨で水かさが増えていて“糸抜川の渡し”は平常徒歩渡りでしたが、その時は川係の役人が民間の船を借り上げ、川越をしますが、お殿様の篭が異常に大きく船に乗らないので、徒歩で渡ることになり、お殿様(綱紀公)は馬上での川渡りになりました。3隻の船と人足10人で壁をつくり、お殿様が馬で渡る段のなると人足を15人に強化し、人足は腰のあたりまで水につかり、馬上のお殿様は鐙がぬれる程度で無事の川を渡ったという。しかし、前回同様、京に行くのを断念し、関ヶ原から北国街道に入り帰国しています。残念!!
つづく
参考文献:「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」忠田敏男著 株式会社平凡社 1993年4月発行・「加賀百万石と中山道の旅」忠田敏男著 新人物往来社 2007年8月発行・「江戸前期加賀前田家の参勤交代」藤井穣治著 石川自治と教育第694号 石川県自治と教育研究会 2016年1月発行 写真は石川県立歴史博物館より