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加賀藩の大名行列③利常公、50歳代半ばの冒険!!

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【江戸→金沢(交代)】

加賀藩3代藩主前田利常公は、慶安元年(1648525(旧暦)から交代(暇)に際し、家康公の三十三回忌で将軍家光に従い日光に参詣し、その足で金沢に帰りますが、例弊使街道(れいへしかいどう)を通って倉賀野に出て田中宿に宿泊し、翌朝、手勢を引き連れ根津越えと云う裏道をとり、残りの人々は通常の北国街道帰国させ、予てより交代の機会を利用し行きたいと思っていた間道「さらさら越え」の踏査に踏み出します。

 

例弊使街道:徳川家康の没後、日光の東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道。倉賀野:江戸から数えて12番目の宿場で、日光例幣使街道が分岐していて、今の群馬県高崎市倉賀野町田中宿:北国街道筋(善光寺街道)の田中宿、今の長野県東御市田中。

 

 

 

北国街道を北上する主力の行列とは別に、利常公はその手勢と西に進み松本へ向かい、そこから北上します。この山道では一層の難儀を極め、伝馬もままならず牛を利用することもあり、宿泊、食事にも不自由し、利常公本陣は屏風や戸障子を立て廻し、お供の人々は利常公の寝所の軒下で、食事はフキの葉カシワの葉を器代りにしたという。しかも食べ物もなく、ひもじい腹をかかえて道中を続け、風雨にさらされ、雷雨でき、お殿様の利常公ゆかた塗り笠で、よりを流し、をついて歩いていたという。

 

 

 

飛騨・信濃・越後の国境に近い姫川上流に差しかかったとき、急流に橋が流され、利常公

は足止めに遭い、鍋に事かき、鍋一つで何度も飯を炊いたという。そのうちに、次男の富山藩主前田利次からの使者が対岸まで来ましたが、橋が落ちてしまった姫川上流の川幅50間(約90m)の急流では歩いて渡ることも出来ず、川に縄を張り桶や箱で渡す方法で運び、本陣には、やがて食品などが山積みになったと伝えられています。

 

 

一行は、姫川の水が脇の下より少しさがったとこで、利常公馬を乗り入れさせ一行は無事川を渡り、糸魚川の次ぎの青海宿まで馬を進めています。この時、途中で大町から左折して針の木峠からザラ峠に向かえば佐々成政「さらさら越え」と同じ経路になっていたのに・・・、偉丈夫と云われ男盛り利常公の冒険はここで終わります。その後、糸魚川街道を通り金沢に帰りました。

 

(姫川上流:水源は長野県北安曇郡白馬村の親海湿原の湧水で、下流は新潟県糸魚川市。)

 

 (佐々成政)

 

「さらさら越え」伝説

天正12年(1584)富山城主の佐々成政が、前田利家公との「末森合戦」の敗退後、戦局を打破のため、徳川家康のもとへ雪の北アルプスを越えて赴いたという。小瀬甫庵の「太閤記」によると、1000人ばかりを召連れ、悲壮な気持ちで厳冬の「さらさら越え」をして家康に対面した話は有名で、決死の覚悟で説得に行った成政ですが、家康の考えを覆すことは出来ず、失意のうちに再び立山を越えて富山に戻ったという。極寒の山越えは今に伝えられている快挙ですが、この山越えに異常に関心をもっていた利常公は、さすが戦国武将の名残と云われ、豪胆性を備えていたと云う利常公面目躍如の振舞いだったと思われます。

 

拙ブログ

古餌指町(加賀の隠道)

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10670623479.html

 

 

 

利常公参勤交代は、記録によると武家諸法度(寛永令)発布以前の寛永8年(16311210日の参勤から死の40日前の万治元年(1658)9月3日の交代(暇)まで27年間の27回行われています。

 

(通常、交代時期は5月なのに、万治元年の交代は9月になっているのは、幕府から命じられた江戸城天守台の普請が、前年よりこの頃まで担当したためと云われています。)

 

前田利常公の逸話

利常公は、父である初代利家公の特長を受け継ぎ立派な体格と能力の持ち主で、その点が数多くいる利家公の子供たちから利長公の後継に選ばれる決め手となったといわれていますが、藩主になると幕府の警戒をかわすため”虚け者(うつけもの)“を装って、人を食ったような奇行の逸話が多く残っています。

その一

幕府からの警戒を避けるために、故意に鼻毛を伸ばして馬鹿を装い、病で江戸城出仕をしばらく休んだ後、老中酒井忠勝に皮肉を言われ、「疝気でここが痛くてかなわぬゆえ」と満座の殿中で大切のところを晒して弁解したといいます。

(疝気とは:男性の尿道に雑菌が入る睾丸炎で陰嚢が大きくなる一種の性病、腰や下腹の内臓が痛む病気。)

その二

徳川御三家の尾張家に江戸城中で頭巾をかぶることが許されると、利常公も頭巾をかぶって登城し、人に咎められるとその場は謝って頭巾を取るが、すぐにまたかぶり、何度も繰り返すうちについに誰も咎めなくなったといいます。

その三

江戸城中に「小便禁止。違反者には小判一枚の罰金」との札が立てられると、ことさらにその立て札に向かって立ち小便をし、「大名が小判惜しさに小便を我慢するものか」と言い放ったといいます。(小便1回、20~30万円位か?)

その四

わが子の光高公が金沢城内に東照宮を建てようとすると「いつまでも徳川の天下とは限らぬ」と咎めますが、家康のひ孫にある4代光高公は建ててしまいます。

 

(このように利常公は、幕府と悶着を起こしますが、その多くはたわいもないものだったといいます。どうもこれは利常公のイメージ戦略で”加賀の前田は特別な家だ“加賀の前田は幕府も思うようにならぬ”ということを、幕府や世間に認めさせることで、そのためには、どんなつまらないことでもやったといいます。それらについて利常公は、まことに愉しそうだったといいますが、改易に繋がるようなことは、しなかったそうで利常公の傍若無人ぶりは計算されたもので、処罰されるか、されないかのギリギリを見極めたもので、城の石垣など本当に処罰されてしまう修理などは、お家を守るため、極めて慎重であったといいます。)

 

 

 

徳川家康は死の床で枕元に来た利常公に対して「お前を殺すように度々将軍(秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず、手も打たなかった」といったという。そして「我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍(秀忠)の厚恩を肝に銘じよ」と言い残したといいます。

 

拙ブログ

利常公の奇行!!加賀文化創出のお殿様より

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11583727601.html

 

 

参考:慶安元年(1658利常公が芦峅寺村の三左衛門・十三郎の父子に「さらさら越え」を含む信濃までの調査を命じ、後日、芦峅寺村からザラ峠を越えて針ノ木峠までの距離を82120間として報告されています。

 

 

 

つづく

 

参考文献:「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」忠田敏男著 株式会社平凡社 19934月発行・「加賀百万石と中山道の旅」忠田敏男著 新人物往来社 20078月発行・「江戸前期加賀前田家の参勤交代」藤井穣治著 石川自治と教育第694号 石川県自治と教育研究会 20161月発行 写真は石川県立歴史博物館より


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