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加賀藩の大名行列②前田家初期の参勤交代

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【江戸→金沢】

前田家の参勤交代は、寛永12年(1635)に制度化されとき、大名はその領国の所在に従い、東国(前田利常、伊達正宗ら39家)西国(島津家久ら61家)2分され、東国はこの年になり、西国大名が在江戸を命じられますが、東国大名の前田家3代利常公は、その年、のはずですが、将軍の命利常公の娘満姫と広島浅野家藩主浅野光晟の婚礼のため、翌年寛永13年(1636328日まで江戸にいます。実は、制度化される前、利常公は寛永8年(1631)から寛永11年(1634)5月6日まで在府し、5月6日からのは金沢や京で過ごし、寛永12年1月29日から参勤、13年暇、14年参勤、15年暇とルール通り繰り返します。そのあと寛永16年(1639光高公への家督相続後から、万治元年(16581012日の死ぬまで参勤交代を繰り返してしています。その意味からも利常公は隠居したとはいえ、死ぬまで現役大名だったと云うことになります。

 

 

 

寛永16年(1639)、将軍家光利常公の願いを入れ、光高公への家督相続利次・利治への分地とを認めます。その分配は家督を継ぐ光高公119万石の内80万石を与えられ、次男の利次には富山10万石、3男の利治には大聖寺7万石が分地され、残る22万石利常公の隠居料ということになります。

 

(寛永19年(1642)参勤交代制度譜代大名が加わり、交替期は6月と8月(関八州内の譜代大名は2月と8月)の半年交代に決まり、外様大名だけの制度から譜代大名にも適用される制度に拡がり、任意制度から強制制度に移行します。もっとも水戸藩・糸魚川藩・彦根藩など老中など役付きの大名は定府(江戸に定住)になり、他に対馬の宋氏は3年に1度、蝦夷地の松前氏は5年に1度と若干の例外が認められます。)

 

(先頭の厄払いと町役人)

 

拙ブログ

利常伝説①猿から犬へ

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11950625571.html

利常伝説②犬と古狸

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11958087099.html

 

 

(利常公)

 

一般的には、隠居後大名は参勤交代をしませんが、前出のように死ぬまで、利常公は、ほぼ4月に参勤、翌年5月前後の交代(暇)という日程で参勤交代を行っています。このことは在府中の江戸城での年頭儀礼にそれまでと変わらず、光高公(将軍の従兄弟)とは別に外様大名筆頭として参加し、光高公は御家門(将軍の一族、松平姓を名乗る事が許される)の一人として、御三家同様の扱いを受けています。

 

(正保3年(1646)の利常公への7月になったのは、前年正保245日に光高公が死亡したことが影響し、万治元年(1658)の9月のなったのは、幕府から命じられた江戸城天守台石垣普請を前年よりこの頃まで担当していたためでした。)

 

         

4代藩主光高公の国元への(在国)は、藩主だった約6年の間2度も少なく、最初の(在国)は、家督相続直後の寛永16年(163911月のから翌年3月の参勤まで5ヶ月足らず、2度目は寛永206月のから同年11月までの6ヶ月足らずと、普通1年弱というのには短いが、これは寛永20年(1643)、綱紀公の誕生を間近に控え、将軍家光から草々に参勤するよう命じられたためだと云われています。綱紀公の誕生はその年の1116日でした。因みに、光高公の正室は、水戸の徳川頼房のむすめで将軍家光の養女として嫁した大姫です。

 

 

 

                                                               (利次)  (利治)

   一筆啓達せしめ候、御同苗淡路守・飛騨守公替

   の義、四月替仕られ候ハ、毎年父子の内へ一

   人宛片付き候間、両人の義は九月替致されたき

   の由候、右の通り上聞に達し候ところ、もっと

   もと思し召され、父子次第にてこれある旨仰せ

   出され候、その意を得らるべく候、 恐々謹言

 

   二月二十一日      阿部豊後守(忠秋)

               松平伊豆守(信綱)

               酒井讃岐守(忠勝)

     (前田光高)

  松平筑前守殿

      人々御中

 

  (阿部は大老・松平・坂井は老中)

 

武家諸法度では4参勤することになっていますが、利常公の次男富山藩の利次3男大聖寺藩の利治参勤は9になっています。これは光高公が時の大老・老中に宛てて出した老中奉書“利次・利治の参勤交代は、定めの通り4月交替ということになれば、毎月父(利常)と子の利次・利治の片方がいつも父と行動を共のすることになるので、2人については9月交替にして戴きたい”と願い出、この申し出は老中から将軍家光の耳に入れてところ家光は”もっともなこと“だとし父子の思うままにするよう命じたと云われています。

 

(この9月勤務体制は、万治3年(1660)に大聖寺藩の前田利治が死亡した後、5月その後4月交替となります。この背景には、利治の死だけではなく、その前々年に利常公が死亡し、9月交替の前提がなくなったことであったことが考えられます。)

 

つづく

 

参考文献:「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」忠田敏男著 株式会社平凡社 19934月発行・「江戸前期加賀前田家の参勤交代」藤井穣治著 石川自治と教育第694号 石川県自治と教育研究会 20161月発行など、 写真は石川県立歴史博物館より


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