【金沢→江戸】
そもそも慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に際し、前田家2代利長公は徳川家康と和睦して、母の芳春院を人質として江戸に送ります。慶長8年(1603)に征夷大将軍になった徳川家康本人も6歳で織田信秀の人質になり、さらに19歳まで今川義元の人質と、身をもって人質を体験したことで、人質は大名を臣従させるのに最も有効だと知り、外様大名の服従を目論見、江戸の参勤と妻子の江戸居住を進めたものと思われています。更に寛永12年(1635)には3代将軍徳川家光によって徳川将軍家に対する「軍役奉仕」を目的に制度化し、「武家諸法度(寛永法)」に参勤交代を条文化し加えます。
(軍役=広義には民衆に課せられる夫役のうちの兵役なども含まれますが、狭義には封建制度における「御恩と奉公」の関係において、知行地の安堵と引き替えに主君に軍事的奉公を行うことを云います。)
その第2条には
大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。(「武家諸法度」発布年:寛永12年(1635)発布者:徳川家光起案者:林羅山 条数:19ヶ条)
(参勤交代条文の現代語訳=大名や小名に在江戸(大名の勤務先は江戸という事)江戸詰の交替を命ずる。毎年4月に江戸に参勤すること。供の数がきわめて多いが、それは大名の費用と労力で負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにすること。とあり、将軍は大名や小名に在江戸を命じ、暇を戴き領地に帰る事を云っています。)
(参勤は、大名が将軍に拝謁するために在江戸することで、交代は、暇を戴き領国に帰ること、「参勤」は、古くは「参覲」の字を用い、「覲」は音では“キン”、訓では“まみえる”と読み、大名が将軍に会見するという意味です。「参覲交代」と表記すべきところ、役人が「参勤交代」と誤って記述してしまって以来、このように書くのが一般的になったらしい・・。)
具体的には、前田家だけではなく全国250以上ある大名家が2年ごとに江戸に在勤し、暇を戴き自分の領地へ交替する制度で、昔、鎌倉時代にみられた御家人の鎌倉への出仕が起源とされ、将軍に対する大名の服属儀礼として始まったシステムを踏襲したと云われていますが、徳川幕府は大名に絶対服従を強いるもので、中央集権と地方大名の力を削ぎ弱体化が目的に行う制度であったと思われます。反面、江戸と国元の定期的な交流により文化・経済の交流にも大きな役割を果たしと云われていますが、現実には地方のお金が江戸に集まる仕組みで、藩政中期に他藩同様で加賀藩の経費額の内43%が江戸での支出だったと云われています。
(参考:参勤交代の制度には諸説あります。その一つに大名の威厳を沿道の庶民に示すとか、将軍に忠誠を尽くす大名を見た庶民に幕府の権威を知ら示すため、また、領国に勢力を蓄積するのを防ぎ、幕府への反抗を押さえると云う説、諸大名が江戸在府中、江戸の安逸な様に流され幕府への反抗心をなくすためとか、さらに、参勤交代はもともと有力大名を弱体化させるための制度という見方もあるが、諸大名の自発的な行為であり、参勤交代では大名行列が見栄の張り合いになり、他藩に負けてはならないと競争心が生まれ、お金がかかろうと、藩の威信が掛っていたと云われていて、その副産物として街道も整備され大きな経済効果をもたらし、生活に身近な食べ物や名物などの食文化はいち早く江戸に伝わり、また、江戸からさまざまな情報や文化が全国に伝わったという。どう見ても後付けと思われる説もあります。)
加賀藩の参勤交代を書いた忠田敏男著の「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」によると、加賀藩では参勤交代は初期の例外を除くと毎年4月に行なわれますが、その準備は半年以上も前から行なわれ、予算の調達に始まり、他大名との間に宿場の重複がないか偵察の者を出すことから始まり、徳川御三家や幕府の役人や勅使、他の大名行列などに気を遣い、なるべくすれ違わないように旅行程の調整だけでなく宿代の交渉などなど、その準備作業は多岐にわたったと書かれています。「金沢板橋間駅々里程表」という資料では、金沢と東京の板橋間に宿泊の可能性がある全ての宿場までの距離がダイヤグラムのように記されており、そのような状況下でいかに限りある予算と労力で江戸にたどり着けるかと知恵を絞りぬいた苦労が分かるそうです。
あらかじめ幕府へ届出を出した期日までに江戸に到着しなければならなく、遅延が一日発生するだけで現代の貨幣価値にして数千万円から数億円相当の損失に繋がるため、いかなる理由があろうとも決められた日付までに江戸に到着しなければならない事情があり、橋や道路の整備がままならない場所もあり、そのような場合はあらかじめ橋や道路を建設し、それでも通行が難しい場合は近隣住民を大量に雇い、川や海の流れを鎮めたという。加賀藩が日本海の難所親不知を超える時に波を鎮める為に近隣から住民を700人も雇ったと云われるなど、準備は入念に重ね、その上、現場での対応も入念確実に行われたものと思われます。
つづく
参考文献:「参勤交代道中記―加賀藩史料を読む-」忠田敏男著 株式会社平凡社 1993年4月発行・「江戸前期加賀前田家の参勤交代」藤井穣治著 石川自治と教育第694号 石川県自治と教育研究会 2016年1月発行など、 写真は石川県立歴史博物館より