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昔の金澤⑩坊主大名11代藩主治脩公

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【金澤の藩政期】

治脩公が藩主になって9年後に重教公に男子が生まれると、治脩公は早速その子を養子とし、後継者に定めます。一方で自分自身は還俗後、分家の大聖寺前田家の娘と縁組することが決まり、幕府からも認可されていたが、奥方が金沢に入ったのは14年後の天明5年(1785)、実際に嫁いだのはそれからさらに14年後の寛政11年(1799)。治脩公55歳の時に自分に実子が生まれますが、重教公の子息との間に継承争いが起こることを避けようとしたためと考えられています。治脩公の用心深さが窺えるエピソードです。

 

 

 

治脩公が相続した頃は、加賀藩の財政は相当深刻で、安永4年(1775)に町人農民からの借金を、翌5年には藩士から借知(家禄の一部を上納させる)を命じています。一方、産業奨励策として産物方を設置するが、効果は上がらず、天明元年(1781)には、諸役所の経費を従来の三分の一に減らし、天明3年(17827月の浅間山噴火の音が金沢に聞こえるなど、天明の大飢饉金沢にも直撃。また、犀川・浅野川の洪水宮腰輪島打ちこわしが発生し、翌天明4年には疫病が大流行庶民の不安はピークに達します。因に天明5年(1784の加賀藩の過去15年分の赤字が11万貫、金18万両、米34万石で、現在の価値2357億円(銀一貫167万円・金110万円・米110万円で換算)負債がありました。)

 

 

拙ブログ

加賀藩十一代藩主前田治脩公は元住職!!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11278414281.html

 

治脩公の治世前半は万事安全運転で、政策も新味は少なかったが、緊縮策を続けたせいで財政は僅かながら持ち直し重教公は、一旦藩政を投げ出したにもかかわらず、この状況を見て再び勝手方(財政)を親裁して自分に都合の良い放漫財政を再現しようとし藩政に介入します。治脩公は、重教公を再び藩主にし、自らは退く意向を示しますが、治脩公に心を寄せる藩士高田善三が、藩政を独占しようとする重教公の側近中村萬右衛門らを暗殺するなど、反重教公の動きも表面化し、間もなく重教公は病を得、天明6年(1786)、隠居から15年後に46歳で死去します。

 

重教公院政の目論見は挫折し側近の権臣達はみな捕らえられて流罪となったという。切腹した高田善三名誉回復となり、家名も再興され死後の急速な「非重教化」の流れから、隠忍自重してきた治脩公の本心を垣間見ることができます。)

 

 

 

寛政元年(178911月、治脩公は四民の風俗を正すために、手本として老臣に対して行状を慎むべきだと諭し、四民の対しては、その風俗はだらけていて、過ぎたる贅沢だとし、武士文武の心がけは薄く、町人・農民は商売・農業を怠り、それぞれが職分を忘れていると指摘し、意識改革を徹底させています。その一方で、町民や農民祭礼などを与え、善行の表彰をはじめます。

 

 

 

治脩公の業績は、5代綱紀公以来の念願であった文武の藩校の創設を決意し寛政4年(1792)2月に開学し、また、兼六園の前身の蓮池庭の再興、さらに兵制の整備など、重教公の死を境に、治脩公が胸中に温めてきた政策を一挙に実現し、始めは効果が上がらなかった産業奨励策特産品開発・育成をした前出の「産物方」の創設も治脩公の発案であったと云われています。

 

 

拙ブロブ

夕顔亭茶室

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11989230561.html

夕顔亭②露地

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11989694990.html

夕顔亭③竹根石手水鉢

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11990512900.html

瓢池と翠滝

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11994977418.html

金城霊澤の伝説と史実そして④文武之学校

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12490782593.html

 

寛政7年(1795)、世子と定めていた重教公の嫡子斉敬が18歳で夭逝すると、治脩公はその弟斉広を継嗣に立て、寛政12年(1800)に治脩公の側室武村氏との間に男子が生まれた前田利命(としのぶ)斉広公の嗣養子と定め、紀州徳川氏の娘との婚約を取り決めますが、利命は5歳で早世、前田家の嫡統を自らの血筋に取り戻そうとした静かな野望は消えて亡くなりました。

 

 

 

治脩公は、享和2年(1802)隠居し斉広公に位を譲り、文化71810)年66で亡くなりますが、31年間の治世は、5代綱紀公(79年間)13代斉泰公(44年間)3代利常公(34年間)に次ぐ4番目の長さで、14代続いた藩主の中で、肖像画を残さず「中継ぎの殿様」としての分際を守ったかに見える治脩公ですが、加賀藩の歴史におけるその存在感は極めて大きいものでした。

 

この項おわり

 

参考文献:「金沢町人の世界」田中喜男著 国書刊行会 昭和635月発行・「打ちこわしと一揆」石川県図書館協会(復刻)平成53月発行・「加賀藩史料第7編」財団法人前田育徳会(復刻)昭和5512月発行・「金沢市史・資料編6近世四」金沢市史編さん委員会 平成123月発行・HP【歴史百話-課外授業の日本史】60.百万石の坊主大名等


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