【藩政期の金澤】
宝暦9年(1759)の宝暦の大火で金沢城の中枢部を焼亡し、たよって幕府から5万両もの借財を負った加賀藩は、いよいよ万事休す。ここに至って重教公は隠居を望むようになり、明和3年(1766)、追い打ちをかけるように前田家内部でただ一人の後継候補であった弟の利実(吉徳公9男)が死去すると、翌4年(1767)出府した重教公は自身の健康状態や財政・治安状況を憂慮し、国元の年寄衆に徳川一門からの養子縁組により難局を乗り切ろうと、内意を書面で伝えると、前田家の血筋の断絶を危ぶみ年寄衆の談合で横山隆達・村井長穹(ながたか)が翻意させるため江戸に向かいます。この報を聴いた重教公は、次回の参勤まで熟慮する旨を伝え両者の帰国を促します。
これまでの経緯:加賀百万石は、5代藩主前田綱紀公(1643-1724)在位1645~1723の時代に最盛期を迎えたが、続く6代藩主吉徳公の時代には藩祖利家公や利長公が築いた巨大な蓄財も底をつき、深刻な財政難に悩まされ、吉徳公は、御居間坊主として側近に仕えた大槻伝蔵(朝元・1703~1748)を重用して財政再建を一任し、倹約令や米相場投機によって一定の成果を得ます。しかし、こうした財政緊縮策や重商主義的政策は藩内門閥層の強い反発を招き、世子宗辰公を抱き込んだ門閥・保守派との間に激しい権力闘争を引き起こし、延享2年(1745)、吉徳公が病死すると伝蔵は孤立し、翌年にはすべての役職を解かれ蟄居謹慎、さらに翌々年には越中五箇山に配流となり、延享5年(1748)には、吉徳公の側室と謀って藩主宗辰公の生母浄珠院の毒殺を企てたとの嫌疑もかけられ、配所に置いて自害に追い込まれた。この一連の騒動と事件を「加賀騒動」と呼んでいます。
拙ブログ
嫉み、妬みから極悪人にされた男➀大槻朝元~⑩
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12588310079.html他
一旦断念した重教公の関心は、幼少時から僧籍にあり、藩主候補の範囲外にあった末弟で勝興寺住職の閘真(せんしん・幼名時次郎)に注がれます。吉徳公の死去の半年前に生まれた男女通しての正真正銘の末子で、3歳で僧籍に入り西本願寺で学んだ後、浄土真宗の古刹伏木勝興寺の住職となり、この年25歳の閘真は、僧侶の自分が藩主を継ぐことは無理であると再三固辞、君臣一体となっての説得についに折れて、還俗を承諾します。
(その時、重教公はまだ30歳であり、後継男子誕生の折は部屋住みとはならず、家禄をいただく一家臣として別家を立てるという条件付で、重教公は幕閣に内々の工作を行って、翌年には強引に藩主の地位を投げ出し隠居してしまいます。閘真は還俗して前田利有と名乗った時次郎は、江戸に出府して将軍家治に御目見得を果たし、一字を与えられて治脩(はるなが)と改名し将軍家からは、還俗して大藩の主となる困難についてのねぎらいと激励の言葉があったという。)
拙ブロブ
金澤城二の丸御殿③10代藩主重教公と金澤城再建
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12616624501.html
重教公隠居の真意については不明な点が多く、現在でも明らかにされているとは言えないが、過去には、襲封の時に麻疹に罹り御目見えが遅れたこと、しばしば脚気と思われる病状により参勤期日を変更していることなど、体調不順が作り話ではなかったにしても、隠居後、鷹狩や能狂言に没頭する様子から、藩主の職務に耐えられない健康状態であったとは言い難い。また、財政再建の失敗や度重なる災害・暴動、加賀騒動後もなおもくすぶり続ける藩内の権力闘争、兄弟たちの不審な夭折などを見るにつけ、藩主の座にあることの危うさや不吉さを強く意識してきた重教公は引退のチャンスを早くから狙っていたことは確かなようです。
(藩主の座に就いた「坊主大名」治脩公は、万事隠居した重教公の指示を仰ぎ、藩政についての指南を受け、重教公が得意とする能狂言の稽古についても教えを乞うなど、一貫して重教公の歓心を買うことに努めたといいます。治脩公はその隠居と自分への譲位の経緯から、わがままで気まぐれな重教公の人格に対し、強い警戒心を抱いていた節があり、襲封から5年間、参勤交代の記録から藩政の細かい運営までを治脩公が詳細に書き記した「大梁公日記」は、大藩の藩主としては珍しいもので先代重教公との関係がスムーズであることをわざとアピールする狙いがあったのかもしれないと云われています。)
P.S
実は、10代藩主重教公は、歴代藩主の中でも恵まれた才能の持ち主で、鉄砲・乗馬・騎射など武芸にすぐれ、蹴鞠・漢詩も巧みで、特に能・鷹狩りを好みました。隠居後は好きな能や鷹狩りで悠々と過ごしています。一方、治脩公は幼児より仏門に居たため、鉄砲など藩主になって初めて触れ能も重教公の命で習い始めます。治脩公の性格は穏やかで、兄に対して謙譲の態度で臨んだという。ある時、兄弟で並んで弓を射たとき、重教公が射た矢を集める小坊主が居合わせず、治脩公に仕える小坊主は、治脩公の射た矢だけを集め差出すと、それを見た重教公は気色を変え、小坊主を手討ちにしようとしたという。そこで、治脩公は言葉も云わず小坊主が差出した矢で激しく小坊主を打ち伏せたため、ようやく重教公の機嫌もおさまり、小坊主は手討ちを免れ命拾いをしたという逸話が残っています。重教公は能力に自信があるだけに、短気で言い出したら聞かないところもあり、それに対して治脩公は、控えめな人柄で気配りの人だったようです。
つづく
参考文献:「金沢町人の世界」田中喜男著 国書刊行会 昭和63年5月発行・「打ちこわしと一揆」石川県図書館協会(復刻)平成5年3月発行・「加賀藩史料第7編」財団法人前田育徳会(復刻)昭和55年12月発行・「金沢市史・資料編6近世四」金沢市史編さん委員会 平成12年3月発行・HP【歴史百話-課外授業の日本史】60.百万石の坊主大名等・「寺島蔵人と加賀藩政―化政天保期の百万石群像―」長山直治著 桂書房 2003年9月発行