【金澤の藩政期】
宝暦5年(1755)7月1日、前回も書きましたが藩は財政が行き詰まり、銀札(紙幣)が発行されます。11月になると早くも贋札をつくる者があれわれますが、何より影響があったのは物価騰貴で、しかも、その年は米の作柄は悪く凶作のため飢死人が出るほどでありました。翌宝暦6年(1756)、米を始め諸物価は益々騰貴し、生活苦は一層窮迫するようになります。しかし、庶民の生活苦を他人事に、買い占めによって巨利をむさぼる者が出てきました。
(贋札は、宝暦5年(1755)11月20日に発覚。宝暦6年(1756)4月27日、つくった金沢の町人御坊町紺屋九郎兵衛・越中津幡江村十村跡源五・寺西弾正家来山田与三右衛門の3人、同類共8人斬罪(首切りの刑)になり、この他贋札をつかった者2人下獄になるが、決まられずこの度は延びたとあります。)
宝暦6年(1756)4月12日の夕方になると、迷子を探すように「市松。市松や~い。」の呼び声を合図に、夜8時頃に、卯辰山の庚申塚に大勢の町人が集まり、先ず300人余りの人々が森下町米商人茶屋三郎兵衛の家を半壊しにし、同町の米商人釣部屋仁兵衛・釣部屋与兵衛の家を壊し、さらに枯れ木橋詰めの尾張町綿買人浅野屋知左衛門・新町の米問屋茶屋三郎右衛門、次に袋町木屋藤太郎(理由不明)、さらに1人で35万石の米を買い占め米価騰貴の元凶であると思われていた下堤町札座棟取角屋弥三右衛門の家々が襲撃されています。
(急を聞きつけた町同心曽田治左衛門と矢部権太夫は、浅野川の大橋の上で、打ちこわし勢が「賄賂の張本人が来た!!」と飛びかかり提灯を潰され、屋根石を投げつけられ、ほうほうの体で逃げ帰ったと云われています。また、新町の茶屋三郎右衛門の家を壊す時、打ち壊しの1人がわざわざ同家の向かいの西尾隼人の門番に対して、「遺恨が有り、茶屋三郎右衛門に家を壊しますが、御門前をお騒がせて申し訳ありませんが御屋敷とは一向にかかわりはございません。何卒お構い下されぬよう、念のため申し上げます。」と落ちついて挨拶が有ったと云う。ところで、早くから打ち壊しを噂されていた下堤町札座棟取角屋弥三右衛門を襲撃した時は、打ち壊し勢は3000人に達したと伝えられています。)
打ちこわし勢には、指導者が居たらしく、人数を確かめる「揃ったか」の合言葉があり、他にも、元禄の赤穂浪士の討ち入りの姿を真似たふしが見受けられます。茶屋三郎右衛門の打ちこわしでは、「金銀、家財道具を盗むな」と云い「後日、盗賊と云われては、せっかくの打ちこわしも不正になる」などと諭しています。打ちこわしの指導者は火災を戒め、掠奪、殺戮を戒めたのは、行動の正当性を藩主や町民へのアピールであり、忖度で有ったと思われます。
(前田重教公)
(その頃、金沢の庶民は150年続く封建制度で、庶民はあきらめきってはいたが、あまりにも苦しさが重なると辛抱が限界に達し、武器を持たない彼らも対抗心を起こし、藩主が一番恐れた加賀一向一揆の団結力が目を覚まし騒乱を起こしたのでは・・・・。もっとも打ちこわし事件が表面化したのは金沢町民の藩政への不信で、噂か事実か分かりませんが前田駿河守は粟ヶ崎の豪商木屋藤右衛門と結び、米を大量に木屋の持ち船で大坂に送ろうとして「国中の貧乏人は2万人、3万人死のうがどうでもいい」と放言したと伝えられています。また、算用場奉行兼札主付奉行の御馬廻頭前田源五左衛門が町奉行と結託して夥しい米を買い込み、領内に米価を高騰させただけでなく、特権町人香林坊兵助に多量の銀札に渡し、正銀を手にした人物で後に罷免され閉門になっているところから事実だったのであろう。)
この時、宝暦6年(1756)4月12日の夕方、町奉行の青地弥四郎は馬に乗り部下50人ばかりを連れて乗り込み、前後に高提灯をたて、槍、長刀を持たせ「拙者は不肖なりといえども藩主より金沢町の支配を命じられている。しばらくでも預かったこの町を、このような騒動におとしいれるとは憎き所業である。それ、騒動の者たちを片っ端しなで斬りにせよ」といったとか、これを聞いた打ちこわし勢は「立派なことを言っているが、このような騒動に至ったのもお前らの虚名のためや、町奉行の乗っている馬をなぎ伏せ引き落とし、後々の懲らしめにせよ」と、高提灯、槍、長刀を打ち折り、町奉行を捕まえようとします。町奉行の青地弥四郎も武士だからそうさせまいとして逃げまわるのを、屋根から重しの石を雨が降るように投げかけられ、青地弥四郎は乗馬のままほうほうの態で逃げ帰り、もう一人の町奉行津田宇右衛門は後から出張ろうとしたが、青地の様子を見て町会所に逃げ込み、その夜は町会所から一歩も出なかったという。
この事件の結末は、打ちこわし勢が、藩主が火災を恐れていたのを逆手に取り、火事であると云えば言い逃れが出来る事を知っていて、この共通の認識から全てが周到に準備され、一同「火事です」と言うことで、現場では逮捕者は出なかった。打ちこわされた角屋弥三右衛門を含む町人6人が禁牢となり、打ちこわし勢側からは8月8日になり森下町の髪結職人与兵衛が友達に「あの打ちこわしは自分たちがやったことで、銀札が停止になり目出度いことだ!!」と口を滑らし捕えられますが、その以外についてはよく分からないという。
(藩は12日から10日毎に1軒について米3升宛のお救い米を出したが、物価騰貴の誘因をした流通する限り、生活の安定はなく、4月16日早くも、前田土佐守は重教公に銀札停止を建議し、6月4日に通用停止が確定し、7月25日から通用を廃止されました。)
町奉行2人は、自ら謹慎して町会所への勤務を遠慮しますが、4月29日、罷免のうえ閉門、御算用奉行兼札主付奉行の前田源五左衛門も罷免のうえ閉門。町同心2人も閉門のうえ罷免と、町奉行側が打ち壊し勢に翻弄されたことは確かで、それだけ藩政中期は財政難から藩政に緩みが生じ、打ちこわし勢は民衆が共感を持って受け入れたのかは分かりませんが、3年後の宝暦9年(1759)4月10日。10,508戸を焼く尽くした宝暦の大火は、フエーン現象が原因とされていますが、それに加えて藩政の緩みや浮かれた町人達の見えない人災もあったのか・・・?藩主も武士も町民も農民も悲惨な事態に直面し、益々、金沢の人々は“せっぱ詰まって”いきました。
拙ブログ
六斗の広見と宝暦の大火
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12041889660.html
つづく
参考文献::「金沢町人の世界」田中喜男著 国書刊行会 昭和63年5月発行・「打ちこわしと一揆」石川県図書館協会(復刻)平成5年3月発行・「加賀藩史料第7編」財団法人前田育徳会(復刻)昭和55年12月発行・「金沢市史・資料編6近世四」金沢市史編さん委員会 平成12年3月発行