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昔の金澤⑦踏んだり蹴ったり宝暦期の前田家

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【金澤の藩政期】

宝暦期の加賀藩前田家は、延享3年(1746)の7代宗辰公の病没から始まり、宝暦3年(1753)の8代、9代の藩主が相次いで病没と、わずか7年の間3人の藩主が亡くなり、窮乏する財政対策で銀札発行するが失敗打ちこわし、城下の大火さらには後継者問題と、踏んだり蹴ったりの事態に、13歳の10代藩主重教公家督を相続します。

 

 

 

宝暦3年(1753488代藩主重煕(しげひろ)は病没享年255月に家督相続した9代藩主重靖(しげのぶ)が同年の929に病没します。重靖公は享年19でした。いずれも5代藩主吉徳公の子息で2男と5男でしたが、その先7代藩主宗辰公享年22と三代続けて早世。10代藩主になった重教公は吉徳公の7男で年寄村井長堅に養子の内意が示されていたが、9代重煕公の病没したため、重靖公の意向で養子縁組の約束が解かれ、事実上、重靖公の嗣子となり、翌年、重靖公の歿後、江戸で9代将軍徳川家重に拝謁し宝暦4(1754)3月11日家督を相続。415日江戸城で元服したのが13でした。)

 

 

宝暦4年(17548月には、藩財政の打開策として藩の年寄が連名で銀札(紙幣)発行を計画し、重教公に上申し、重教公は宝暦5年(175544日幕府の許可を得て、算用場内に銀札方御用役所を開設し、札主付奉行前田源五左衛門、稲垣三郎兵衛、青地弥四郎を任命します。札の交換など実務を行う役所に下堤町にあった間口六間の高島屋弥兵衛宅を買収し、往来に面した前口を青竹で菱垣を結ったと云われています。

 

 

下堤町の役所には、札座頭取酒屋覚左衛門(野町)以下4人、帳面方綿屋儀右衛門以下2人、銀掛古保屋伊右衛門以下1人、算用役米屋太助以下1人、銀包役米村屋孫三郎以下1人、銭調役兼諸事取次役河合屋市衛門以下4人、入口方頭役能登屋長兵衛以下1人の21名が任命されました。

 

藩は銀札発行布告

6月より藩士への貸銀を実施し、7月朔日から銀貨の通用を停止し、銀貨およびニセ札を使うものは処罰され、銀貨100を札座に持参すれば銀札100匁5分を渡し、銀貨100を必要とする者は、銀札101と交換します。

銀貨の発行予定は、1匁・2匁・3匁・5匁・10匁・20匁・30匁・50匁・1009種類で、1匁に満たない分は銭(文)を使い、銀札が揃うまで、10匁まで銀札と銭をともに使う。また、銀札が汚損し、通用が難しいものは札座で交換、他国商人との商売の決済は、入国時に銀貨を銀札に換え、出国時に銀札を銀貨に交換します。

藩への上納はすべて銀札にし、藩札の引替えは6月から始まる。

 

(藩が発行して銀札は65,300貫目余(1090億5000万円)であったが、家臣に貸したのは、12%足らずで、残りは藩財政の赤字を埋めるために使いました。幕府には家臣の窮乏と言って許可を得るが、実際には藩の赤字財政の補填が目的で、その理由では幕府の許可を得られないためだったようで、藩が幕府を騙していますが、切羽詰まった窮余の策で、よく似た手法は、例えば、前に書いた戦後の新円切り替えお上のやり口によく似ています。もっとも、これは国が国民を騙していますが、追い詰められると何をするか分からないのが偉いさんの性なのかもしれません。)

 

 

 

宝暦5年(175571日から銀貨の使用が停止と決まり、城下は630日まで持っている銀貨を銀札と換えなければならなくなり、下堤町の札座は大混雑をきたし、それ以上に困ったのは銭が底を着き、町中に銭が町から消え町人の買い物がストップし、これまた、大混乱を来たします。その年の秋は不作で、新米1が銀6分238,8文・1,000だったのが12月には1,2匁75文・2,0002になり翌年3月に町中に酒が消え、宝暦6年(17563月中旬には米価12,3143,8・約3,5005月には5312,5文・8,000に暴騰し、金沢ではどの米屋にも米がなくなり、日雇いなどの貧しい人々が餓死寸前に追い込まれ、宝暦6(1756)正月には物価全体が高騰します。

 

(江戸中期、金1両=銀60匁=4000文で、現在、1両=10万円として、現在、銀1匁は1,670円。銭1文は25円(125,000円)で計算しました。)

 

2月には川南町の薬種商宮竹屋が白砂糖1斤(600g)を305分(約5,000円)で売買し、藩から高値で売ったとして30日間商売を禁止され、2ヶ月後、銀札の引換が中止のなった5月頃には白砂糖が134匁(約57,000円)から35(58,000)に値上がりすると、町の人びとは「宮竹屋がお咎めを受けたのは、なんのためやったんや。」と笑ったそうです。

 

 

 

2月下旬には町の全商品について調査することになり、連日、紙屋・薬屋・合羽屋・豆腐屋・味噌屋・醤油屋・酒屋・油屋・菓子屋の順に町会所に呼び出したため、またまた町会所は市場のように混雑をきたしたという。

 

宝暦6(1756)7月。たった1年で銀札は停止されました。

 

つづく

 

参考文献:「金沢町人の世界」田中喜男著 国書刊行会 昭和635月発行他


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